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2018年9月27日木曜日

モヤモヤ期

内容がモヤモヤなのですっきりな写真を。

















そもそも疑問を持ったのは、ヨガのルーツ的なこと。

まことしやかにヨガ哲学なるものが語られているけれど、実は幾つかのものが混ざって、混乱している模様。

では何がどこでどう混ざって、混ざった上で整合性を持って統合されているのか、それともただ本当は無関係なものが同じものとして語られてしまっているのか、それとも…

あるときからそんなモヤモヤが始まって、それ以来ずっとそのモヤモヤを追いかけ回している。

おかげで少し見えてきたけれど。




面倒な奴だと思う人は思うだろうけど、

気になるものは気になる。




その問いは、何を求めて、目指して、ヨガをするのか、ということにつながって、その先の、何を目指して生きるのかということにもつながるから。




ますます面倒、というか、いい歳して若造のようだけれど、

でもいい歳だから考えてしまうんだと思う。




少なくとも、

呼吸に意識を向けながら身体を使ってポーズをとることに良い効果がたくさんあるのは身を以て知っている。
その狭い意味においてのヨガは、たくさんの人の役に立つとわかっているから、自分の練習はもちろん続けるし、教えることは楽しい。




でも、身を以て知っている効果の先に、果たして何があるのか、それは自分が生きていく上で大切にしたいことをどこまで助けてくれるのだろうかと考える。



そして、自分が大切にしたいことってなんだったっけと改めて考える。




2017年6月18日日曜日

カルマヨガと夕焼け
















最寄駅から置いてあった自転車に乗って家に向かう。

ヨガの大先輩から、彼女がインドの先生から学んだことをシェアしてもらった帰り道。

テーマであったアヴィヤーサ(無執着)についてのお話が一旦終わったあと、話題がカルマヨガになったことを思い出していた。

自分に与えられたことを、何も期待せず、報いを求めず、結果を問わずにやり抜くのがカルマヨガ。

ここでもやっぱり無執着が鍵なのだなあ、などとぼんやり考えながらペダルを漕ぐ。




駅の周りの商業地域から、家々の並ぶエリアへ入っていく。私にとって日常そのものの空間に戻ったそのときだった。不意に、カルマヨガの意味が、ストンと腑に落ちた。




今の私にとってのカルマヨガは、日常のあれこれを、歓びながら、熱心に行うこと。




バガヴァッド・ギーターを読んだり、今日のようなお話を聞いたりして、そんなことはわかっているつもりだった。でもそれは頭の中でだけだったのだと気づく。

だから、実際には、日常のあれこれに時間を取られることに、どこか不満を持っていたことにも。




それが自分の望むことであれ、そうせざるをえないことであれ、日々のことを、ただただ大切にする。

それまで、言葉のみであったものが、全身を包む感覚になって、みぞおちのあたりがふっと軽くなったのがわかった。




住宅街の片隅に今も少しだけ残っている田んぼに田植えをするおじさん、その脇の道で犬を散歩させているおばあさん。

みんなカルマヨガをしてるんだなあ。




軽くなった心と身体で、一人勝手に納得して、家の手前の最後の角を曲がる。

そのあとの夕焼けは、いつもより色鮮やかだった。














2017年5月15日月曜日

犀の角のように





大乗仏教の、できる限り他者を助けなさいという考え方が好きで、
だからいつも、人との関わりの中で自分にできることがあるなら、歓んでしたいと思っている。

でも、

ときに、ただ相手に都合よく使われ、磨り減ってしまうこともある。
と言って、自分の身を守ろうと、自分の利益になる関係だけを選ぶ、というのは違う。

いつも、この2つの間でゆらゆらしてきた。



『犀の角のようにただ独り歩め』

「ブッダのことば」第1章の「犀の角」で、修行者のあるべき姿を示しながら、繰り返されるフレーズ。
独り歩め、と言いながら、真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ、とも言う。

一見矛盾があるように見えることばたちを噛みしめながら読んでいたとき、すっとどこからか聞こえてきた声があった。

「良き友のためにこそ、尽くしなさい」


私の力は些細なもの、時間は限られたもの。
身の丈を知れば、誰とどう過ごすべきなのか、自ずと見えてくるのかもしれない。

そして、

誰といても、私は私として、流されない、信頼できる自分であることが大切。
犀の角であれるように。


2017年5月10日水曜日

ブッダ・プルニマに



ダライ・ラマの本などは読んでいるけれど、シンプルなブッダの言葉にこれまで触れたことがなかった。中村元さんの訳も初めてだ。


もう少しスラスラと読めるかと思っていたら、本の厚みの半分近くが訳者の註で、原文のパーリ語でなんと表現されているかを交えながら、翻訳面の解説、哲学面の解説が入り混じっている。本文と註を行ったり来たり、なかなか進まない。


でも、これが予想外の面白さだった。


ヨガの哲学や、その背後にあるインドの哲学、それからサンスクリット語を、うっすらではあるけれど学んできた今だから、その中で聴きかじったサンスクリット語と似た言葉を見つけ、それが仏教の教えの中でどのように扱われているかを知ることに、心が躍る。


5年前だったら面白いどころか、うんざりしてたかもしれない。


チベット仏教の本を読んでいたから、ヨガ・スートラやバガヴァッド・ギーターを読んだとき、とても理解しやすかった。


そして、それらを読んだから今、この本が面白い。


いつも、ものごとは正しい順番でやってきているのかもしれない。
日々の小さなことについ気をとられて、見逃してしまったりもするけれど。


気付けば今日は、インドでゴータマ・ブッダの誕生日が祝われる、ブッダ・プルニマの日。