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2019年2月15日金曜日

自利と利他と、前回の補足

2011年暮れ、南インドのどこか。




















ひとつ前のこのブログを読んで、

私が、誰かに言ってしまったことに関して深刻に悩んでいると思った方たちから、

励ましや慰めの言葉をかけていただいた。




お気持ち、とてもありがたく、嬉しかったし、

言葉というのはいろいろに伝わるものだから、それはそれでいいのだけれど、




実際の私は、悩んで書いたわけでは全然なかった。

(ご心配いただいた方、ゴメンナサイ)



私は自称仏教徒。



先日、お勉強会に参加してきたせいか、

大乗仏教の大切な教えである、利他の行いのことが頭にあって、

このところ、自分の行動を自利か利他かといちいち考えてみていた。



一見、他者のためのように見えても、

よく観察してみれば、実は自分の為であることがほとんど。



生き物として、

最も大切なのは生き延びて子孫を残すことだろうから、

子孫以外の他者よりも、まず自分を優先するのはたぶん当たり前のことで、



だからこそ、

利他の行いは尊いのかもしれない。



そして、

その利他の心を大切にすることは、

難しいけれども、私たちを心地よくさせてくれる。



その流れで、


ふと口にして気になっていた言葉のことも、

相手のことを思って気になったのではなくて、

結局自分の評価が下がることを心配していただけと気がついて、



ああ、やっぱり仏教の教えどおり、

利他の行いは心を穏やかにするし、

自利の行いはその逆だなあと、



むしろすっきりしたのだった。





行いの表面だけを見ずに、

その奥にある動機を、

明らかにしていきたい。



それは、

少し前に書いた、

サンカルパにもつながることだなあと思う。

新年とサンカルパと残りの時間






2019年2月6日水曜日

食べるという選択 その1

ご近所のベジカフェめぐるさんのベジスパイスカレー























何を食べるのか、

食べないのか、

しかも、それはどんな理由でなのか。




選択はさまざま。




万人にとってこれが正解、なんて答えはないと思っている。




例えば、




ヨガなどのインドの文化に触れていると、

サットヴァな性質のものを食べるべき、

ということを耳にする。





インドで習った、

ハタヨーガ・プラディピカーにも、

食べてはいけないもの、避けるべきもの、食べていいもの、が書かれている。

でも、先生は、時代や国が違うから、必ずしも書かれている通りにしようとしなくていい、

という意味のことをおっしゃっていた。




特に気候や環境の影響は避けられない。




私にとって1番身近な例はチベット人の夫で、

伝統的に、厳しい気候の地域で、肉や乳製品をメインに摂ってきた彼らに、

菜食を勧めるは無理があると感じる。







私はというと、




今は、お肉もお魚も卵も乳製品も、

基本は食べない。




そうなったのにもいろいろな理由があり、

(それはまた別の機会に)

この先もずっとそうかどうか、もわからない。

(たぶんお肉を食べることはないと思うけれど)

人に強いる気もさらさらない。




ただ、



漠然と、

スーパーやレストランにオススメされるまま、

流されて口に入れるのではなくて、

(自分で選んでいるつもりが選ばされている、ということが多々あると思う)

納得して本当に自分で選んだものを食べたい。





とは言え、

お釈迦様は選択すらされなかったんだけれども。










2019年2月5日火曜日

新年とサンカルパと残りの時間

ラサのチベット寺院のバターで作った飾りもの
























昨日は立春。

今日は旧暦のお正月。

それから、旧暦とはちょっと違うのだけれど、

今年はチベット暦でも今日が元旦、ロサル。




節目になるこの時期に、

練習中感じたこともあって、

剥がれ落ちた朝



改めて、

どうありたいのか、を、丁寧に見定めるのって大事だなと思う。




そうでないと、

自分の思う方に進んでいるつもり、で、

実は、本当に望んでいることとは無関係だったり、

むしろ真逆だったりするような、

どうでもいいことに、

つい時間を費やしてしまう。




まあ、人ってそんなもの。




なんだろうけれど、

そんなこと言ってると、あっという間に今生が終了してしまうので、

くだらない、と後で思うようなことはもうできるだけしたくない。




ちょうどこの前のサンスクリット語の勉強会で、

サンカルパのことが話題になった。




サンカルパというのは、何か行為をするときに、

どんな目的のために、何をするのか、言葉にしてはっきりさせることだそう。




どこに行きたいのかがはっきりすれば、何に乗ってどう行けばいいのかわかる。




すごくシンプルなことなのに、今までしてこなかった。




これからは、ひとつひとつ、サンカルパして、即行動、かな。




どれだけあるか知らないけれど、

貴重な残りの時間、無駄にせず使いきれますように。





2019年2月4日月曜日

剥がれ落ちた朝

南インド、おじさんのコーヒー園に向かう道
























朝の練習中、



くだらない!

と、突然、声がした。

それは、私自身の声だった。




何してんのん?

何したいのん?

ポーズがたくさん出来たらええのん?

そんなことが目標やったん?




突風みたいに、次々問いが溢れ出て、

こちらの私は、

ちょっとびっくりしながら、ただその問いを見つめる。




そうやんなあ、

そんなことじゃなかったやんなあ、うんうん。




ちょっとお怒りの私の声、

でも、全てが腑に落ちて、

こちらの私は両手を上げて降参。





出来ないことに焦ったり、人と比べたり、

出来不出来にこだわって、落ち着かない自分。




そんな気持ちがいっぱいあるのに、

まるで何も気にしてないフリで練習してる自分。




くっだらないなあ。

と、思った。

とことん、くだらないと思えて、清々しかった。





時折、こんな風に、やってくる、

何かが、剥がれ落ちる瞬間。




ちょっと痛いときもあるけれど、心地よい。

どんどん剥がれ落ちて、身軽になればいい。



2019年2月2日土曜日

学ぶ、幸せ。

文字を見ると、とりあえず読もうとする
























今日は朝から、

少しお久しぶりのサンスクリットのお勉強会。




参加出来なかった先月、

自分で本を開くことも、

しなかったり、

出来なかったりで、




ちょっと不安も感じながら、

でもやっぱり、わくわくしながら向かう。




お馴染みになった顔触れ。

それだけで落ち着く。




始まれば、

目も耳も手も頭も、いっぱいいっぱい。




脳みそが熱くなって、

うわあ、もうこれ以上無理、

と、何度か思う。




でもまた、

知りたいことに

気持ちが向かっていく。




インドで習い始めてから、

少しずつ、かじり続けてみてはいても、

先は見えない、

全体も見えない。




こういうとき、

これをして、どうなるんだろう?

何の役に立つんだろう?




以前の私は

そんなことばかり考えていたけれど。







精いっぱい、夢中で過ごす幸せな時間、




場を作ってくれる人がいて、

教えてくれる人がいて、

一緒に学ぶ人がいて、

そこにいられる自分がいる。







もうそれで、充分。

それ以上、何もいらない。







2018年11月13日火曜日

残念だけど残念じゃないこと

とは言えなんだか捨てるのが忍びないチケット






















先月の入院から順調に回復した母が、退院してからも予想以上に落ち着いているので、

諦めていたダライ・ラマ法王の法話に参加しようと、

今月に入ってから、横浜行きを企んでいた。




ところが、

なんとか段取りをつけて、行きの夜行バスと入場券を手配したところで、

落ち着いていたはずの母が1日に2度も家で転んで、

幸い怪我はなかったけれど、急激に足が弱っていることに気づかされた。




おまけに、子供の頃いつも一緒に遊んだといういとこの訃報まで届いて落ち込む母を見て、

結局横浜行きは取り止めにすることにした。




一番お安い席とはいえ入場券は購入済み、

バスのチケット代も全額は戻ってこない。

何より法話に行きたかったから、

ずっと以前の私なら、さぞ苛立っていたと思う。




でも、今の私は、特にがっかりもしていない。

もちろんやせ我慢などではなくて。







母その他、自分以外の人や物事に振り回されることに慣れてしまった、ということもないとはいえない。

ただ、それだけとどこかに恨みが残りそう。

でもちょっと違うのだ。




せっかくなので、なぜなのか改めて考えてみる。




そもそも、

今回行けなかったことは、母のせいだと思っていない。

一見、誰か、や、何か、のせいであるように見えることも、

いつかの、私自身の行いが回り回って影響している、と思っている、

たとえそのつながりが見えなかったとしても。


さらに言えば、最終的に行かないと決めたのは私自身であって母ではない。



前回のブログにもチラリと書いたけれど、
ハハのムスメ



自分の身に起きることはすべて自分のせいだと考えれば、

誰かや何かを恨むことをしないで済む。




それに加えて、

行けなかったことが必ずしも残念な、マイナスなこととは限らないとも思っている。

行かなかったせいで、お釣りがくるくらい楽しい出来事に出会うかもしれないし、

逆に、行けていたとしても、来なけりゃよかったと思う出来事に出会うかもしれない。




つまり、

近くから見ると、

母のせいで起きたネガティブなこと、のように見えるけれど、

離れて遠くからみれば、

私自身が招いたポジティブなこと、になるかもしれない。







もちろんこれは私が考えたアイデアではなくて、 
こんな風に思えるようになったのは、

仏教その他、

インドやチベットの古い教えのおかげ。 






空いた時間、

母を連れて紅葉でも見に行こう。

それはそれでワクワクする。


















2018年9月27日木曜日

モヤモヤ期

内容がモヤモヤなのですっきりな写真を。

















そもそも疑問を持ったのは、ヨガのルーツ的なこと。

まことしやかにヨガ哲学なるものが語られているけれど、実は幾つかのものが混ざって、混乱している模様。

では何がどこでどう混ざって、混ざった上で整合性を持って統合されているのか、それともただ本当は無関係なものが同じものとして語られてしまっているのか、それとも…

あるときからそんなモヤモヤが始まって、それ以来ずっとそのモヤモヤを追いかけ回している。

おかげで少し見えてきたけれど。




面倒な奴だと思う人は思うだろうけど、

気になるものは気になる。




その問いは、何を求めて、目指して、ヨガをするのか、ということにつながって、その先の、何を目指して生きるのかということにもつながるから。




ますます面倒、というか、いい歳して若造のようだけれど、

でもいい歳だから考えてしまうんだと思う。




少なくとも、

呼吸に意識を向けながら身体を使ってポーズをとることに良い効果がたくさんあるのは身を以て知っている。
その狭い意味においてのヨガは、たくさんの人の役に立つとわかっているから、自分の練習はもちろん続けるし、教えることは楽しい。




でも、身を以て知っている効果の先に、果たして何があるのか、それは自分が生きていく上で大切にしたいことをどこまで助けてくれるのだろうかと考える。



そして、自分が大切にしたいことってなんだったっけと改めて考える。




2018年2月14日水曜日

インドのその後


ちゃんとシャラに行ってましたよという証拠写真























インドで練習することの最大の意味は、ヨガとは何か、を、それが生まれた地で深く感じられることだと思う。




感じたことを形にするまでにはまだまだ修行が足りないとはいえ。


今に始まった事ではないけれど、
まるでヨガではないものが、ヨガとして伝えられたり、ヨガとして受け入れられたりしているのを見て、正直もやもやしている。



とりあえず、もうずっと言い続けているし、知ってる人には当たり前のことなんだけれど、


ヨガは筋トレやストレッチのような身体のエクササイズではない。

ヨガを通して身体に起こることを、解剖学や生理学の観点から説明することは可能だろうけれど、それはヨガそのものではない。




アーサナは、練習を積み重ねて、自分の身体を通して経験するものであって、座って人から学ぶものなんかじゃない。

そしてアーサナを形として完成させることは、ヨガでは絶対にない。




ヨガはヨガです!

と、大阪の真ん中で叫びたい。




で、そのヨガとはじゃあ何なのか、を、もっとちゃんと伝えていけるようになりたい。





どこにいても旅は続く。



2018年1月12日金曜日

見つめる先にあるもの

毎朝たくさんの鳥たちの声とともに目が覚める





















インドに来て、ひと月半。


日常のあれこれに煩わされない分、ギリギリのところまで、自分と向き合うことになる。




いや、以前は、そこまで向き合えなかったのかもしれない。

どこかで、目を背けたり、少し逃げたり。

今回は、それをせず、後に引かない自分がいる。

そうせざるをえない時が来たのか、それとも、それができるようになったと少しは喜んでいいのか。




ここで目にすること、

耳にすること、感じること。

その中での自分の振る舞い。



それらが引き金になって、


毎日のように、気付くことがある。




そうだったのか、と腑に落ちること。

そうだったよね、と思い出すこと。

そうだと知っていたのに、見えないふりをしていたこと。






今日まで生きてくる間に、

幾重にも重ねてしまった殻のようなものを、

一枚一枚、剥がしていく。

痛い思いもしながら。




なぜそんなことをするのか。

楽なことではないのに。






でも、その先にしか、望むものはないと思うから。






2017年12月31日日曜日

マイソールの大晦日

いつもと変わらないマーケット。
日本では賑わう大晦日の市場の映像が流れてるんだろうな。




















今日、練習はお休み。

だけど、大晦日だからじゃなく、単に日曜日だから。

(もともとインドでは、1月1日の新年って特にお祝いはしないらしい。その代わり、彼らには彼らのいろんなお祭りが年中たくさんある。)




明日もまた、いつも通りの月曜日、もちろん朝の練習も、午後のクラスもある。




練習を休むのは、週に1回の決まった曜日(ここでは日曜日)、新月と満月のムーンデイ、それから、女性の場合は生理のとき。あるいは熱があるような体調不良のとき。以上。




昨日のカンファレンスでも、いかに仕事や他の生活と折り合いをつけながら、休まず練習を続けるかということが話題になっていた。




1日くらい休めないの?




という問いかけを、家族や友人や職場の同僚から、何度となく投げかけられつつ、そしてそれに答えないのを奇妙がられつつ、練習を続ける。




先生ですら、同じ経験をしてるなんて、驚きつつなんだか嬉しい。




なぜ休まないのか、についてはまた改めてゆっくり書きたいと思いつつ。




とりあえず、何も特別なことはないながら、


1年の初めの日の朝を、ここマイソールでの練習でスタートできるなんて、と、ちょっと興奮気味にマイソールの大晦日を過ごしている。



2017年12月21日木曜日

インドの時間

南インド、マイソール、
ヨガシャラのあるこのエリアは大きな家ばかり























インドへ来て20日以上が経っていることに驚く。

初めの1週間ほどは、落ち着くためにしなければいけないことがあれこれあって、なかなか時間が過ぎない。




そのあとは、毎日、練習に行きチャンティングやサンスクリット語のクラスに行き、その合間にご飯を食べてる間に、あっという間に時間が過ぎて、ふと気付いた時にびっくりする。

毎回そんな感じ。




そんなバタバタの日々の中、




何をしにここへ来たのかな。




そんな問いがよぎる。




ヨガの練習、と言えばそれまでだけれど、いつもと同じ練習をここへ来てまでする理由は何なのか。

それは、なぜヨガをしているのかという問いにもつながる。






むしろその問いと向き合うためにここにきているような気もする。



2017年9月25日月曜日

マイソール、という練習方法


アシュタンガが生まれた南インド、マイソール市の顔、マイソールパレス


















ヨガのクラス、と聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、生徒さんたちの前に先生がいて、先生がしたポーズを生徒全員が真似て、といった光景だろうし、それで概ね間違っていないと言えると思う。




でも、アシュタンガヨガの、本来の練習方法であるマイソールクラスの景色はそれとは違っている。




まず、生徒のやって来る時間がまちまち。

来た人から、黙ってマットを敷いて自分で練習を始める。

先生は、みんなの周りを見て回っていて、自分がポーズをとることはない。




ポーズの順番が全て決まっていて、生徒はそれを覚えて繰り返し練習する。

だから、みんなで一斉に練習する必要も、前で先生にデモンストレーションしてもらう必要もない。




もちろん、最初から皆がポーズの流れを覚えているわけではない。

始めてクラスに来た人は、まず、練習のはじめにすることになっている太陽礼拝を先生から習う。

息を吸いながら両手を挙げて、息を吐きながら上半身を倒して、と、動きと呼吸をひとつひとつ。

それを、繰り返し練習して、自分一人で出来るようになったら、先生が次のポーズを教えてくれる。

それが出来ればまた次のポーズ。

太陽礼拝から始まり、習ったところまでを日々繰り返し練習する。

そのようにしてひとつずつ、出来るポーズが増えていく。







クラスとして変わっている、と思われがちだけれど、実はそんなことは全くない。

私はこれとそっくりなお稽古事を身近に知っている。




私の母は、長らく生花の先生をしていたのだけれど、お稽古日には、生徒さんたちが三三五五やってきてお花を生け、生け上がったお花にそれぞれのアドバイスをもらって、また三三五五帰って行った。今思えばマイソールクラスと全く同じスタイルだ。




本来、先生から生徒への指導というのは、しばしばこんな風に、1人ひとりの違いや習熟度に合わせて、個別に行われていたはずなのだ。




ことヨガとなると、自分で練習を進めないといけないというので、初心者には無理だと思われることが多いのだけれど、実は真逆で、グループクラスのように、周りの人に合わせて動く必要が全くなく、その人の体力、柔軟性、筋力などに合わせて練習が進むから、ヨガをしたことのない人、身体を動かすことに慣れていない人でも問題なく続けられる。




それでも敷居が高い、と感じる人がいる。

それには、その人の、練習や学びへの向き合い方が関係すると思うのだけれど、そのお話はまた次に。



プラクティスについて書いた前回記事
http://yukkuritooku.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

2017年9月16日土曜日

ご縁が繋がるところ

ブッダガヤのお釈迦様が悟りを開かれた
場所に立つマハーボディ寺院






















2011年の暮れから2012年の年明けにかけて、ダライ・ラマ法王のカーラチャクラ灌頂に集まった人々で大混雑するブッダガヤにいた。
お釈迦様が悟りを開かれた聖地、とはいえ田舎町で、参加者用のテント村なども用意されるけれど、世界中から集まった人を収容するだけの宿泊施設はない。


そんな中、私は仏心寺と言う日本の小さなお寺が併設するゲストハウスで快適に過ごしていた。
たまたまインターネットで見つけて、1年近く前に予約を入れておいたのだ。
もちろんここ以外にもホテルやゲストハウスはあるけれど、予約を入れたところで、そこはインド、あてになんかならない。
でも、日本人のお坊さんは、当たり前だけどちゃんと部屋を確保してくれていた。


メールでやりとりしただけのそのお坊さんに実際会ってみると、ずいぶん若くて驚いた。
このお寺とゲストハウス、それからここで開いている貧しい子たちのための学校の面倒を見るために、年の半分をブッダガヤで過ごしていると聞いて、さらに驚く。


ゲストハウスのみんなで作った晩ご飯を食べる

















カーラチャクラの期間中、他の部屋のチベット人やドミトリーの日本の若い子たちと、晩御飯を一緒に作って食べたり、巡礼に行ったり、阿弥陀様の前でお勤めをしたり。
そんなこんなを、いつも静かに見守ってくれている若いお坊さん。
ブッダガヤは、仏教徒でなくともいるだけで平和な気持ちが溢れる聖地なのだけれど、仏心寺は、そこに集った人たちを、優しく結びつけてくれる、そんな場所だった。


その頃は思ってもみなかったのに、ヨガを始め、さらに少しずつ指導も始めていた頃、お坊さんから連絡をいただいた。
彼のお父さんがご住職をされている日本のお寺でイベントをすることになり、そこでヨガをしてほしいということだった。
それが、3年前の、初めての「テラキテ」だ。


聞いてみると、テラキテのチラシのデザインをされたのも、やはり仏心寺を訪れた方、イベント当日、カレーを販売していた方もそう。
ブッダの聖地でつながった人たちが、日本のお寺でまた集う。
ご縁、というものを感じずにいられない。


その後、月1回定期的にそのお寺でヨガのクラスをさせていただくようになり、またそこでもご縁が広がっている。



ご縁に導かれて、また新たなご縁に出会う。

それが人と人なのだなあと思う。























そして、来月8日、3度目の「テラキテ」。

今年のテーマは『結』。

これまでのご縁を大切に、また次の良きご縁が結ばれますように。