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2019年2月9日土曜日

引っかかった言葉

先日お参りした清荒神さんの滝






















誰かに言った言葉、

送ったメッセージや、SNSでしたコメント。



もう取り消せない言葉のことが後から引っかかって、



あんなこと書いてよかったのかな、とか、

他の言い方にすればよかった、とか、



ぐるぐる、ずるずる、いつまでも考え続けてることがたまにある。



ふと、

どうしてそんなに引きずるのかと、よくよく自問してみたら、



そういうときの私は、


相手がその言葉をどう受け取ったか、

相手に不快な思いをさせてしまっていないか、

と、一見相手のことを思い遣ってるようで、


実は、


そのせいで相手からの、

私自身に対する見方、評価が下がることを心配している。


つまり、考えてるのは相手のことじゃなく自分のこと。



でも、相手の気持ちは見えないから、


失礼だと思われたかもしれない、

いや、そんなこと気にしない人なんじゃないか、

いやいやでもやっぱり…などと、堂々めぐりして、終わりがない。


もし、


自分への評価じゃなく、

相手の気持ちに思いを向けていたら。



不愉快な思いをさせたていたらごめんなさい、と、謝ることも出来るし、

相手に伝えなくても、

次はこうならないように気をつけよう、と心に決めることで、

いつまでも、相手がどう思ったのかをぐるぐる考え続けなくて済む。


つまり、相手がどうかじゃなく自分がどうあるか。




今度また、ぐるぐる堂々巡りが始まったら、

あ、私、相手の気持ちじゃなく、相手からの評価を気にしてるな、

と、警戒しよう。

















2019年1月27日日曜日

神さまとの時間

生田の森の楠
























手を合わせた途端始まった祝詞

顔を上げると、

社殿から澄んだ風が流れてくる







左手に回ると、

池の端に市杵島姫さま

小さなお社から伝わってくるもの







そして、

社殿の背後の、木々の影の中へ




それは、

幾本かの大きな楠に守られて、

清らかな空気を湛え続ける、鎮守の森




見上げた先から降り下りてくる光が、

足元のせせらぎをきらめかせる




その中でいつも楽しげに遊ぶ鳩たちと一緒に、

私も木漏れ日を踏んでゆっくりと歩く







ふと顔を上げると、

連なった朱色の鳥居の先、

お稲荷さんと目が合う




これまでご挨拶したことがないのに、

呼んでもらった気がして階段を上がる




初めまして、と頭を下げる

かららん、かららんと朗らかに響く鈴







また来ます、

そう、お稲荷さんに、

それから全ての神さまに伝えて、

鳥居を出る




何かを引き受けて、

何かを下さった、

そう感じる、

神さまとの時間。






今日は、神戸、大倉山安養寺さんでの、
月1回のヨガの日でした。
次回は2月24日です。

詳細 お寺でヨガしませんか?























2019年1月20日日曜日

私が思う気の話 土地編

チベット、ラサのポタラ宮


















気、とか、プラーナ、とか、

呼び方はなんでもいいけれど、

何かしらエネルギーの流れを私たちはみんな持っていて、

それは、他の生き物も、木や石や土地も同じで、

お互いにそれを感じたり与えたり受け取ったりしている。




見えないものは信じないという人もいるだろうから、

何を根拠に、と言われるかもしれないけれど、

確かにそんなエネルギーを感じている人は、私に限らずたくさんいて、




今外で鳴いているネコがそこにいるように、

今手に持っているコーヒーカップがここにあるように、



確かに感じるのだから、あるものはある、としか言えない。




昨日、お参りの話を書いたけれど、

お寺や神社は、

そんなエネルギーの流れの良い場所に建っているから、

信仰心がなくても、そこへ行くことで元気になれる。

あるいは、その元気にしてくれるチカラこそが、神様だとも言える。




私が知っている中で1番パワフルな場所はチベットのラサだ。

そこにいるだけで、身体にエネルギーが溢れて、気分が高揚する。

元々の大きな土地のエネルギーに、多くの人々が惹きつけられて巡礼にやってくる、その祈りのパワーが積み重なって、さらにエネルギーを強くする。

聖地とは、そういう場所なのだと思う。




ラサにはなかなか行けそうにないけれど、




お気に入りのお寺や神社に行っては、良い気をいただいてくる。

自然の中にある、大きな木や石に触れてチカラをもらう。

自力では整えきれない自分のエネルギーを、そういうところで助けてもらって整えている。



次は氣の話、人編





2019年1月19日土曜日

お参りは愉しい

奈良県生駒市、宝山寺大黒堂前からの眺め。






月に1度、家族3人揃ってお参りするのが決まりだった。





日曜の朝、突然、母が今日はお参りに行くと宣言すると、のんびり休日を過ごすつもりだったはずの父も絶対逆らえず、必ず行くしかないのだった。





正直、楽しいお出かけではなかった。





寒くても暑くても、山の中腹に点々とあるお堂にお線香とお賽銭を備え、手を合わせながら、奥の院の先にある大黒堂まで登る。最後はお堂の周りを100回周るお百度を踏んで、ようやく帰路。

特に冬場は、今よりもっと寒かったから、手先足先が凍えて、本当に辛かった。





行き帰りに楽しい寄り道があるということもなく、特にお正月のお参りの時など、どちらかと言えば参道の屋台がメインらしい家族連れなどを、恨めしく眺めていた。






いつの頃からか、私は1人でお参りするようになり、父も他界して、それからもずいぶんと時間が経った。家族揃ってのお参りだけでなく、月に3回は通い、お堂のお手伝いまでしていた母も、自力で行けなくなって久しい。






私だけが、あの気乗りしなかった月1回のお参りを、誰に強制されるわけでもないのに、律儀に続けている。






それも、嬉々として。






今なら、なぜ母が月3度も通ったのかがよくわかる。






今日は久しぶりに大黒堂でお百度を踏んだ。


真言を唱えながら100回周る間、もう昔のように、早く終わればいいのに、とは思わない。






身体中の無駄な力が抜けて、お線香の香りが深く染み込んでいくのを味わいながら、大きなチカラに包まれる安心感の中で過ごす時間。


終われば何もかもニュートラルに戻っていて、ああまた来よう、そう思いながら山を下りる。






疲れたら、ただそこに行けばいい。


そんな場所を持てていることのありがたさを噛みしめ、そのご縁をくれた母にも、感謝を感じながら。