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2019年7月17日水曜日

心を眺める

お悔やみにいただいた百合が開いた
























小さな医院の、診察室の前の椅子に座って、名前を呼ばれるのを待つ間、部屋の中を見回す。




中身がわかるようにシールが貼られたプラスチックの何段にも重なった薄い引き出し、その上にも、処置用の用具らしい長いカタカナの名前が書かれた箱。



敢えて、来たことのない医院を選んだのだけれど、どこの風景も似たり寄ったり。母のことを考えそうになったとき、診察室から名前を呼ばれた。



受付で教えてもらった1番近くの薬局は、母と最後に鉢植えの花を買ったお店の数件隣で、その向かいは母が気に入っていた和菓子屋さんだ。



「お薬手帳はお持ちですか?」

これも、母と一緒に何度も聞いたお決まりの質問。

ありません、と言うと、可愛らしい犬のイラストのを渡された。



家に向かい自転車で走ると、母の通っていた眼科の前を通る。




これでもか、と、母を思わせるものが立ち現れる。避けようもないのだ、同じ町でずっと一緒に暮らしてきたのだから。




でも、

そこで寂しさや悲しみを感じるのは、立ち現れたものごとのせいではないことを、幸い私は知っている。




以前と変わらずそこにある景色に、

母のことを結びつけているのは私の心。




そうして自らざわざわする心を、少しだけ離れて眺めている私がいる。

だから、沸き起こった感情に、飲み込まれずに済む。




気持ちが沈むことも泣くこともあるけれど、そんな自分を、なんとか取り扱えている。




仏教やヨガや、古の教えは、私たちの心こそが、私たちを苦しめるのだと知らせてくれるし、その心をどう取り扱えばいいのかを示してくれる。




そういう教えに、少しずつ触れてきたおかげで、始終波立つ心との間に、わずかながら距離を保てるようになったことを、母の不在を通して感じる日々。




もともと感情的な方だから、また何時大波が起きるかもしれないとは思うものの、




そのままどこかに流されてしまうようなことはもう無いと、これまで持てたことのない自信が微かにある。





寂しくて、悲しくて、幸せ。









調子に乗ってあれもこれもと睡眠時間を削って動き回っていたら、膀胱炎になりました。

血尿が出てびっくりして、祝日だったので休日診療に行き、大量の麦茶を飲んで、もらった抗生物質を飲んだら症状は消えました。

が、尿検査の結果が悪くて脅されていたので、念のため近所の医院へ。

でもやっぱりほぼ治ってたみたいです。







2019年2月19日火曜日

まっすぐ自分を見る

畑越しに山が見えるここの景色が好き
























ヨガの練習を続けて、

できないポーズができるようになっていく、

その過程には、

身体のこと、自分自身のこと、

いろんな気づきがあって、それが私たちを成長させてくれる。




でもその成長は、

今の自分に何ができて何ができないのか、

身体も心も、

まっすぐに見つめた上でしか起きない。



そしてそれは、たぶん簡単なことじゃない。




かつて、

ダンスに明け暮れていた頃、

なんだか気持ちが塞いでしまったことがあった。




心の真ん中に、よくわからない不快な感情があって、

それが、自己嫌悪だと気づくまでに、1週間ほどかかった。




それまでの私は、

どうしたら評価されるのかといつも考えていて、

評価されるような自分ではないことに、まるで目を向けていなかった。




なんでもできているようなつもりになって、

本当は空っぽなのに、

自分を大きく見せることばかりに熱心だった。




何ができていないのか、

どうすればそれができるようになるのか、

そこに思い至らずに、

練習だけはよくするけれど、

それでは何も変わらない。




そんなことを何年も続けて、

とうとう、気がついたのだ。




私には、謙虚さがない。

一体何様のつもりだったのだろう。




何にも見えてなかった自分が恥ずかしくなって、

自己嫌悪に陥っているのに、

それが自己嫌悪であることにすら気付けなかった。




この気持ちを絶対忘れてはいけない。

決して早くはないけれど、

この先は謙虚に自分を見つめて生きよう。




そう思って、

ちょうど1月半ばだったから、

遅まきの書初めのようなつもりで、

手元にあった筆ペンで、謙虚、と書こうとしたら、

謙虚という漢字すら忘れていて、

情けなすぎて笑ったのを覚えている。




誰だって、

自分をよく思いたいし、よく見せたい。



ヨガのポーズを練習したからといって、

そんなエゴが、簡単になくなるはずもない。



でももし、変わりたいという気持ちがあるなら、

エゴをちょっと脇にどけてみないと、


リアルな自分は見えてこない。





一昨日、

ふと、また、謙虚さを忘れていた気がして、

あの時みたいに筆ペンで書いてみた。


さすがに、漢字は忘れていなかった。











2019年2月9日土曜日

引っかかった言葉

先日お参りした清荒神さんの滝






















誰かに言った言葉、

送ったメッセージや、SNSでしたコメント。



もう取り消せない言葉のことが後から引っかかって、



あんなこと書いてよかったのかな、とか、

他の言い方にすればよかった、とか、



ぐるぐる、ずるずる、いつまでも考え続けてることがたまにある。



ふと、

どうしてそんなに引きずるのかと、よくよく自問してみたら、



そういうときの私は、


相手がその言葉をどう受け取ったか、

相手に不快な思いをさせてしまっていないか、

と、一見相手のことを思い遣ってるようで、


実は、


そのせいで相手からの、

私自身に対する見方、評価が下がることを心配している。


つまり、考えてるのは相手のことじゃなく自分のこと。



でも、相手の気持ちは見えないから、


失礼だと思われたかもしれない、

いや、そんなこと気にしない人なんじゃないか、

いやいやでもやっぱり…などと、堂々めぐりして、終わりがない。


もし、


自分への評価じゃなく、

相手の気持ちに思いを向けていたら。



不愉快な思いをさせたていたらごめんなさい、と、謝ることも出来るし、

相手に伝えなくても、

次はこうならないように気をつけよう、と心に決めることで、

いつまでも、相手がどう思ったのかをぐるぐる考え続けなくて済む。


つまり、相手がどうかじゃなく自分がどうあるか。




今度また、ぐるぐる堂々巡りが始まったら、

あ、私、相手の気持ちじゃなく、相手からの評価を気にしてるな、

と、警戒しよう。

















2019年2月6日水曜日

食べるという選択 その1

ご近所のベジカフェめぐるさんのベジスパイスカレー























何を食べるのか、

食べないのか、

しかも、それはどんな理由でなのか。




選択はさまざま。




万人にとってこれが正解、なんて答えはないと思っている。




例えば、




ヨガなどのインドの文化に触れていると、

サットヴァな性質のものを食べるべき、

ということを耳にする。





インドで習った、

ハタヨーガ・プラディピカーにも、

食べてはいけないもの、避けるべきもの、食べていいもの、が書かれている。

でも、先生は、時代や国が違うから、必ずしも書かれている通りにしようとしなくていい、

という意味のことをおっしゃっていた。




特に気候や環境の影響は避けられない。




私にとって1番身近な例はチベット人の夫で、

伝統的に、厳しい気候の地域で、肉や乳製品をメインに摂ってきた彼らに、

菜食を勧めるは無理があると感じる。







私はというと、




今は、お肉もお魚も卵も乳製品も、

基本は食べない。




そうなったのにもいろいろな理由があり、

(それはまた別の機会に)

この先もずっとそうかどうか、もわからない。

(たぶんお肉を食べることはないと思うけれど)

人に強いる気もさらさらない。




ただ、



漠然と、

スーパーやレストランにオススメされるまま、

流されて口に入れるのではなくて、

(自分で選んでいるつもりが選ばされている、ということが多々あると思う)

納得して本当に自分で選んだものを食べたい。





とは言え、

お釈迦様は選択すらされなかったんだけれども。










2019年2月5日火曜日

新年とサンカルパと残りの時間

ラサのチベット寺院のバターで作った飾りもの
























昨日は立春。

今日は旧暦のお正月。

それから、旧暦とはちょっと違うのだけれど、

今年はチベット暦でも今日が元旦、ロサル。




節目になるこの時期に、

練習中感じたこともあって、

剥がれ落ちた朝



改めて、

どうありたいのか、を、丁寧に見定めるのって大事だなと思う。




そうでないと、

自分の思う方に進んでいるつもり、で、

実は、本当に望んでいることとは無関係だったり、

むしろ真逆だったりするような、

どうでもいいことに、

つい時間を費やしてしまう。




まあ、人ってそんなもの。




なんだろうけれど、

そんなこと言ってると、あっという間に今生が終了してしまうので、

くだらない、と後で思うようなことはもうできるだけしたくない。




ちょうどこの前のサンスクリット語の勉強会で、

サンカルパのことが話題になった。




サンカルパというのは、何か行為をするときに、

どんな目的のために、何をするのか、言葉にしてはっきりさせることだそう。




どこに行きたいのかがはっきりすれば、何に乗ってどう行けばいいのかわかる。




すごくシンプルなことなのに、今までしてこなかった。




これからは、ひとつひとつ、サンカルパして、即行動、かな。




どれだけあるか知らないけれど、

貴重な残りの時間、無駄にせず使いきれますように。





2019年2月4日月曜日

剥がれ落ちた朝

南インド、おじさんのコーヒー園に向かう道
























朝の練習中、



くだらない!

と、突然、声がした。

それは、私自身の声だった。




何してんのん?

何したいのん?

ポーズがたくさん出来たらええのん?

そんなことが目標やったん?




突風みたいに、次々問いが溢れ出て、

こちらの私は、

ちょっとびっくりしながら、ただその問いを見つめる。




そうやんなあ、

そんなことじゃなかったやんなあ、うんうん。




ちょっとお怒りの私の声、

でも、全てが腑に落ちて、

こちらの私は両手を上げて降参。





出来ないことに焦ったり、人と比べたり、

出来不出来にこだわって、落ち着かない自分。




そんな気持ちがいっぱいあるのに、

まるで何も気にしてないフリで練習してる自分。




くっだらないなあ。

と、思った。

とことん、くだらないと思えて、清々しかった。





時折、こんな風に、やってくる、

何かが、剥がれ落ちる瞬間。




ちょっと痛いときもあるけれど、心地よい。

どんどん剥がれ落ちて、身軽になればいい。



2019年2月1日金曜日

からだ、カラダ、身体























自分自身積み重ねてきた練習の中で理解したり発見したりして、

確信を得られたこと。

それから、

これまでの練習仲間や生徒さんたちを観察してきてわかったこと。




ヨガのクラスで伝えることは、

全て、

直接的、或いは間接的な、私の経験ベース。




外から得た知識のみで、

自分自身で確信出来ていないこと、は伝えない。

右から左へ知識を受け渡すだけなら、私はいらないと思うから、

何となくそれを信条にしている。




でも、

経験ベースだと、なかなか出会えないこと、

出会えないけれど知っておきたいことは、

確信を持って教えてくれる先生に学びに行く。







月に1度参加する解剖学のクラス。




1番の目的は、

自分とは違うタイプの身体について知ること、

それから、自分の身体についても、より深く知ること。




学ぶ中で、

経験的に確信していたことが、解剖学の説明と一致すると、

心の中で小躍りしている。



昨日もまた1つ、2つ、と、そんなことがあって、

特に大切だと思っていたことだったから、私の中はお祭り騒ぎ。




興奮気味に家に帰って、

今朝からは、

それらを反芻しつつ、還元しつつ、練習するのがまた楽しい。







いずれ思うように動かなくなり、

最後には消え去る身体。




でも、これ無しでは何も体験できない、大切な乗り物でもある。




私が人のお役に立てることはこれくらいなので、

自分の身体で日々実験しながら、

周りの人が、少しでも長く快適に過ごせるように、

乗り心地よく手入れするお手伝いができればと思う。
















昨日は、まき先生の、解剖学のクラスでした。

本で学べる単なる知識、ではなく、

それを丁寧にご自身の身体に落とし込み、

さらに多くの身体を見てこられた経験を通して生まれた知恵を、

惜しまずシェアしてくださる、有り難い先生です。

次回が今から楽しみ。











2019年1月31日木曜日

変わりゆく、すべて
























仏教は、

この世には3つの苦しみがあって

その1つが、

変化の苦しみだと教える




私たちは、

良き変容をしたいと望みながら

なかなかそれを得られない




けれど、

望まない変化は、日々やってくる




ひとつ、またひとつ

昨日出来たことが、出来なくなっていく母




本人は、どこまでその変化に気づいているのだろう




わかることが、苦しみになるなら

わからずにいてくれた方がいいのか




側にいる私は、




話が噛み合わず、途方に暮れる

堂々巡りに苛立ち、苛立つ自分にさらに苛立つ




ちょっと心を鎮めて

笑顔で話せる日もあれば、




向き合うことすら難しい日も多い





先のことを考えず

何も望まず




心を平らに保って役目を果たせたなら、

良き変容にも繋がるはず、と、




自分に言い聞かせたり、

聞かせられなかったり




これもヨガ

これこそプラクティス




2019年1月30日水曜日

目的地を決めずに
























まだ時々、

本当に書きたいことじゃないことを書こうとしている。


書くこと、生きること




なんとなく、目的地を目指して、

そこに行き着こうとしている。




でも、

思いつく範囲の目的地なんてつまらない。




もっともっともっともっと、

自由になって、




思いがけない場所にたどり着きたい。





2019年1月29日火曜日

根っこの繋がり


5年ほど前、居心地のいい人たちと歩いた山の中。






















少し前まで、




私にさして興味はないのだけれど、

お付き合いしてくれていた人たちが結構いて、

でも、そういうのって不自然だから、

一緒にいると、しばしば腑に落ちない気持ちになることがあった。




でも、




いくつかのものを手離して生活が変わったら、

そういう人は、いなくなった。




私にくっ付いているように見えたもの、が、そうさせているのは知っていて、

でもそれは私じゃないんだけどなあ、と、ずっと思っていたので、

すっきりした。




寂しくなったわけでもなくて、




何もくっ付いていない小さな私、を、見てくれる、

愉快な人たちが周りに増えた。





根っこの方にあるエネルギーを感じて、お互い引き合う。

そんな人たちと、

もっと繋がっていきたい。





2019年1月28日月曜日

ヨガの先輩たち

桜。冬空の下、ひっそり準備中。
























時折クラスに現れる

ヨガの先輩たち




身体が柔らかいわけではなく

難しいポーズをさっと決められるわけでもない




むしろ、




全然曲がらなかったり、力が無かったり




でも、彼らは先輩だとすぐにわかる




年配の人であることもあれば

その逆もあって




プラクティスは、

今生だけではないのだと教えられる




丁寧に聞き

丁寧に動く




出来たことは、ただ出来たこととして

出来ないことは、ただ出来ないこととして

それ以上でもそれ以下でもなく




淡々と

自分を見つめる、

彼らのまとう気が、

周りの空間さえ鎮めていく




私に伝えられるのは、

身体のことだけ




その先は、

彼らの方が知っている








2019年1月26日土曜日

書くこと、生きること

























元々書くことが好きだから、

思い立ってブログを毎日更新してみていたら、

だんだん気持ち悪くなってきた。




何故だろうと思っていたら、

昨日答えが見つかった。




読まれることを意識して書いているブログ。




以前の私は、




ただ自分の思いと、

言葉とが、

出来る限り近づくように、




それだけを考えて書いていた。




そうして紡いだ言葉が、

私を不快にさせることなんてあり得なかった。




私にとっての書くこととはどういうことなのか。




そしてそれは、




書くことについてだけではなく、

全てのことの答えでもある。

そのことに気づけて、

今とても気分が良い。




この答えと一緒に、

今年は書いていこう。



生きていこう。




2019年1月23日水曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 その2

青空に向かって深呼吸!























すべての人にヨガをオススメしたい理由 その1 はこちら



身体能力を維持するためだけなら、筋トレをして柔軟体操をすればいいのかもしれない。

でも、私は絶対ヨガをオススメしたい。



その1番の理由が、呼吸。



筋トレや柔軟体操でも、呼吸を指導されることはあると思うけれど、

良い呼吸をするために、この筋トレをしましょう!柔軟性な身体を作りましょう!

ということではないはず。



ヨガは違う。

まず呼吸ありき、なのだ。



ヨガと言えば、いろいろなポーズをとるものというイメージがあるだろう。

ただ、そのポーズを形だけ真似しても、そのポーズは完成しない。

そのポーズをとりながら、かつ、深くスムーズな呼吸が出来て初めて完成したと見なされる。


呼吸抜きのヨガはありえない。



生きる、とは、息をすること。

呼吸が止まることは、命の終わり。



その呼吸の質を高めることは、命の質を高めることに繋がるのだと思う。

そしてそれが出来るのがヨガだということ。




ただ吸って吐くだけなら誰だって出来る、いや、しているはず。

でも、どんな風に?

無意識にしているだけに、自分がどんな呼吸をしているか、みんな知らない。




心肺機能を高めるだけなら、やはり他の運動でも構わない。

実際、どんなスポーツでも身体を使うことでも、レベルの高いプレイヤーほど、呼吸をコントロール出来ているのだろうと思う。



でも、より繊細に、より深く、呼吸を見つめてその質を高めることが出来るのがヨガ。

なぜなら、それこそがヨガの目的だからだ。





私は、ヨガを始める前、長くダンスをしていたのだけれど、ヨガほどではないにせよ、呼吸について注意を受けることがあった。

おかげで呼吸に意識を向けるようになったものの、その結果気づいたのは、日常の自分の呼吸が、浅くて、すぐ途切れて、全くスムーズではないということだった。

ダンスで激しく動いていたので、心肺機能は高められていたはずで、でも、どんなときにも安定した呼吸が出来るかと言えば、そうではなかった。



今の私は、その頃よりかなり年齢が上がっているから、激しいスポーツなどでは疲れやすくなっているかもしれない。

でも、日常動作では圧倒的に、今の方が疲れない。

それは、ヨガのおかげで、平常時の呼吸が深くなったからだと確信している。



そして、

呼吸の質が上がると、

疲れにくくなるだけにとどまらないいいことが、他にもいっぱいある。



それについては、長くなるのでまた次に。




クラスのお知らせです。


月1回、神戸の安養寺さんで開催している朝のヨガクラス、

今週末、1月27日です。

阪神大震災で全壊、その後寄付を集めて数年前に再建された、

歴史はあるけど新しいお寺です。

伝統的な手法を守って建てられた本堂は、

木の香りが漂う素晴らしい空間。

暖房も完備されていますので、安心してご参加ください。

詳細 お寺でヨガしませんか?




2019年1月22日火曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 たぶんその1

梅。凛々しい、という言葉がよく似合う。























来月89歳になる母の介護をしている。




身体に意識的に動かすことをしてこないと、こうなってしまうのか、ということを、目の当たりにしている。




私が身体を動かすことに関わり続けるのは、もちろん自分が好きだからでもあるけれど、この母を反面教師にしている部分も大いにある。



母は、生涯通して、一切のスポーツ、運動といったことをしたことがない。学生時代は戦争中で、そのあとは親の借金を背負って働き詰めだったので、その頃にそんなことは出来なくて当然だとは思う。


私を子育て中に、膝だか腰だかに不調を感じて、歩かねば、と思い、数年間、新聞集金のパートに出たところまでは良かった。(母は自転車に乗れないので、徒歩で集金に回っていた)


しかし、その後は、月数回、山のお寺にお参りに行くくらいで、歩く以外のことは何もして来なかった。




身体能力は、使っていれば維持、向上も出来るけれど、使わずに放っておくと退化する。さらに、使っていても、加齢で徐々に落ちていく。




ただ、高齢の人でも、定期的に動かせば、ある程度筋力もつくし、柔軟性も上がる。




問題は、

生まれてこのかた身体を意識して動かしてこなかった人は、

脳と身体の連携が良くなくて、

筋力、柔軟性の問題以前に、

思ったように身体を動かせない。

脳の命令が、うまく身体に伝わらない、回路が、途切れているのだと思う。




若い頃、スポーツなどで1度でもこの回路を繋げたことのある人は、

ブランクがあっても、比較的早く回路が復活する。




ブランクなく、継続して身体を動かしている人は、この回路がしっかり繋がっているから、年齢が上がって新しいことにチャレンジしても結構出来たりする。



けれど、

この回路を、高齢になって初めて繋ぐのは、とても難しいし、何をやってもうまく出来なくて、運動を継続しにくくもなる。



(これらのことは全部、ダンスやヨガを長く続けてきた自分自身の経験を通して、

或いは周りの人や生徒さんたちを見てきて、

或いは母を観察してきて、いつしか考えるようになったことだけれど、概ね間違えてはいないと思う。

私は運動生理学などを学んだことがないから、もしかしたらとても基本的なことなのかもしれない。

そちらの観点からの知識がある方、良ければ是非教えてください。)



何にしてもとにかく、


あまり身体を動かしてこなくて、この回路が繋がっていない人は、出来るだけ早く繋げることをした方がいいし、


ある程度繋がっている人は、途切れないように使い続けた方がいい。



気、プラーナ、などと言われるエネルギーのことを書いたけれど、

私が思う気の話 土地編
私が思う気の話 人編


そのようなことに興味がなくても、

身体能力を出来るだけ維持することは考えた方がいい。

年齢が上がると、その低下が更にいろいろな問題に繋がっていく。




そして、そのためにも、ヨガは特にオススメ。


身体をくまなく使って全身の筋力、柔軟性をともに高められ、

さらに呼吸を意識して動くことで、大切な呼吸器の機能も高められる。


ただし、


三日坊主や、数カ月に1回のイベント的参加では、効果は得られないので悪しからず。






2019年1月21日月曜日

私が思う気の話 人編




2005年、チベット、ラサの巡礼者たち


















人の持つ気。

これは、土地と違ってちょっと厄介。


私が思う気の話 土地編



きっと、身体中を、エネルギーが気持ち良く巡っていれば、いい気を放っているのだろうし、


良くない気を発している時は、

何事かでその流れが妨げられ、滞っているのだろう。




土地の気よりずっと短いスパンで、上がったり下がったり。




そして、

そんな気を、知らず知らす私たちは外に放っていて、

お互いに、与えたり受け取ったりしている。







チベットの偉いお坊さんに、何度か間近でご挨拶させていただいたことがあるけれど、




毎回、ただ足元に座らせていただくだけで、

パワフルな聖地に足を踏み入れたいるかのように、

安心感と幸福感、肯定感に全身が包まれる。




どれほどのいい気が巡り、外に放たれているんだろう。




人が、このような存在になり得るということが、驚きでもあり、希望にもなるのだけれど。




比べるのもおこがましいとは言え、

かたや私は、

残念ながら、

マイナスの気をしばしば、たぶんかなりしばしば放っている。(周りのみなさんゴメンナサイ)




ただ、自覚があるときには、

その気を外に向けないように意識することを最近覚えて、これは結構有効なように感じている。




でも、いつもそんな風に冷静に対処出来ないからやっぱり厄介。







でも、だからヨガが必要なんだよね。










そんな、気を整えるヨガの話をこれから書いていこうと思います。


2019年1月20日日曜日

私が思う気の話 土地編

チベット、ラサのポタラ宮


















気、とか、プラーナ、とか、

呼び方はなんでもいいけれど、

何かしらエネルギーの流れを私たちはみんな持っていて、

それは、他の生き物も、木や石や土地も同じで、

お互いにそれを感じたり与えたり受け取ったりしている。




見えないものは信じないという人もいるだろうから、

何を根拠に、と言われるかもしれないけれど、

確かにそんなエネルギーを感じている人は、私に限らずたくさんいて、




今外で鳴いているネコがそこにいるように、

今手に持っているコーヒーカップがここにあるように、



確かに感じるのだから、あるものはある、としか言えない。




昨日、お参りの話を書いたけれど、

お寺や神社は、

そんなエネルギーの流れの良い場所に建っているから、

信仰心がなくても、そこへ行くことで元気になれる。

あるいは、その元気にしてくれるチカラこそが、神様だとも言える。




私が知っている中で1番パワフルな場所はチベットのラサだ。

そこにいるだけで、身体にエネルギーが溢れて、気分が高揚する。

元々の大きな土地のエネルギーに、多くの人々が惹きつけられて巡礼にやってくる、その祈りのパワーが積み重なって、さらにエネルギーを強くする。

聖地とは、そういう場所なのだと思う。




ラサにはなかなか行けそうにないけれど、




お気に入りのお寺や神社に行っては、良い気をいただいてくる。

自然の中にある、大きな木や石に触れてチカラをもらう。

自力では整えきれない自分のエネルギーを、そういうところで助けてもらって整えている。



次は氣の話、人編





2018年11月13日火曜日

残念だけど残念じゃないこと

とは言えなんだか捨てるのが忍びないチケット






















先月の入院から順調に回復した母が、退院してからも予想以上に落ち着いているので、

諦めていたダライ・ラマ法王の法話に参加しようと、

今月に入ってから、横浜行きを企んでいた。




ところが、

なんとか段取りをつけて、行きの夜行バスと入場券を手配したところで、

落ち着いていたはずの母が1日に2度も家で転んで、

幸い怪我はなかったけれど、急激に足が弱っていることに気づかされた。




おまけに、子供の頃いつも一緒に遊んだといういとこの訃報まで届いて落ち込む母を見て、

結局横浜行きは取り止めにすることにした。




一番お安い席とはいえ入場券は購入済み、

バスのチケット代も全額は戻ってこない。

何より法話に行きたかったから、

ずっと以前の私なら、さぞ苛立っていたと思う。




でも、今の私は、特にがっかりもしていない。

もちろんやせ我慢などではなくて。







母その他、自分以外の人や物事に振り回されることに慣れてしまった、ということもないとはいえない。

ただ、それだけとどこかに恨みが残りそう。

でもちょっと違うのだ。




せっかくなので、なぜなのか改めて考えてみる。




そもそも、

今回行けなかったことは、母のせいだと思っていない。

一見、誰か、や、何か、のせいであるように見えることも、

いつかの、私自身の行いが回り回って影響している、と思っている、

たとえそのつながりが見えなかったとしても。


さらに言えば、最終的に行かないと決めたのは私自身であって母ではない。



前回のブログにもチラリと書いたけれど、
ハハのムスメ



自分の身に起きることはすべて自分のせいだと考えれば、

誰かや何かを恨むことをしないで済む。




それに加えて、

行けなかったことが必ずしも残念な、マイナスなこととは限らないとも思っている。

行かなかったせいで、お釣りがくるくらい楽しい出来事に出会うかもしれないし、

逆に、行けていたとしても、来なけりゃよかったと思う出来事に出会うかもしれない。




つまり、

近くから見ると、

母のせいで起きたネガティブなこと、のように見えるけれど、

離れて遠くからみれば、

私自身が招いたポジティブなこと、になるかもしれない。







もちろんこれは私が考えたアイデアではなくて、 
こんな風に思えるようになったのは、

仏教その他、

インドやチベットの古い教えのおかげ。 






空いた時間、

母を連れて紅葉でも見に行こう。

それはそれでワクワクする。


















2018年10月4日木曜日

ハハのムスメ

50年、生花を教えていた母。
























88歳の母と、一人っ子の私。

表向きは、いつもニコニコ穏やかで愛らしい母と、その面倒をよく見る愛想のいい娘、ということになっている。たぶん。




もちろん、現実はそんなに美しくない。




ふわふわした見かけとまるで違って、一人で親の借金を返済し、家を買い、姪甥の面倒まで見てきた、昭和一桁生まれの母の強さたるや相当なもの。自分の成し遂げてきたことに絶大な自信を持っているから、自分の望むように生きれば娘も幸せであると信じて疑わなかった。




私のすること、選ぶもの、全てが気に入らない。そればかりか、全力で阻止してくる。私の人生は、この母との葛藤の日々だった。ようやく私は私であることを認めさせた時には、母は、少しずつ私の助けを要する状態になっていて、別の意味で私の人生を左右する存在になった。




言いたいことの1つや2つ、どころか100や200はあるけれど、もうそんな言葉は届かないところに行ってしまった母。

やりたい放題やって逃げられたようで、どこか腑に落ちない。でも、何か言ってみたところで今さら何が変わるわけでもない。母に何かしら伝わるとも思えない。

それどころか、もう私無しでは生きられない母に負の感情を抱くことは、罪悪感になって跳ね返って来さえする。




だからあれこれ考えないように淡々と暮らしているつもりだった。

常に母を最優先にするその熱心さを自分で不思議に思いながらも。




でも、そうして何年も過ごして、

とうとう、気がついたことがある。




甲斐甲斐しく付き添う笑顔や、やれやれしょうがないというため息のずっと奥に、




私が私であることを認められないままでいる、私自身がいたのではなかったか。いつもどこかに、母に言われ続けたように私は何かしら間違っていて、不十分な人間だという意識と、それゆえの後ろめたさがあったのではないか。

そんな意識があること、そしてそれがどれほど自分を縛っていたかに気づき始めたとき、感情がひどく波打って、今までと同じように母と向き合うことが難しくなった。




どんなことも、母のせいにするつもりはない。この身に起きることは全て私ゆえだと、これは仏教やヨガから学んだ大切なこと。おかげで、人や状況をとことん恨むようなことはしないで済む。それでも、時々襲ってくる強烈な苛立ちを、正直持て余した。




そんなあれこれを全部、今日、ここで認めてあげようと思う。思うことは限りなくあっても、なんとか母と暮らす自分、それでもやっぱり、元気でいてほしいと願い、笑ってくれれば嬉しいと思う自分を、まあよくやってるんじゃない、と認めてあげようと思う。






何度目かの、母の入院を前に。



2018年9月27日木曜日

モヤモヤ期

内容がモヤモヤなのですっきりな写真を。

















そもそも疑問を持ったのは、ヨガのルーツ的なこと。

まことしやかにヨガ哲学なるものが語られているけれど、実は幾つかのものが混ざって、混乱している模様。

では何がどこでどう混ざって、混ざった上で整合性を持って統合されているのか、それともただ本当は無関係なものが同じものとして語られてしまっているのか、それとも…

あるときからそんなモヤモヤが始まって、それ以来ずっとそのモヤモヤを追いかけ回している。

おかげで少し見えてきたけれど。




面倒な奴だと思う人は思うだろうけど、

気になるものは気になる。




その問いは、何を求めて、目指して、ヨガをするのか、ということにつながって、その先の、何を目指して生きるのかということにもつながるから。




ますます面倒、というか、いい歳して若造のようだけれど、

でもいい歳だから考えてしまうんだと思う。




少なくとも、

呼吸に意識を向けながら身体を使ってポーズをとることに良い効果がたくさんあるのは身を以て知っている。
その狭い意味においてのヨガは、たくさんの人の役に立つとわかっているから、自分の練習はもちろん続けるし、教えることは楽しい。




でも、身を以て知っている効果の先に、果たして何があるのか、それは自分が生きていく上で大切にしたいことをどこまで助けてくれるのだろうかと考える。



そして、自分が大切にしたいことってなんだったっけと改めて考える。




2018年9月19日水曜日

沈黙の理由


この絵は本文と関係があるかもしれないしないかもしれない
























このブログ、サボっていてたというわけではなくて更新できずにいた。

ヨガはヨガです、と勢いよく書いた後、で、ヨガってなんなの?という疑問のるつぼにはまって出てこれなくなった。
まあそれはそれで、面白くもあるのだけれど。

世間で思われているヨガ、ヨガの世界で捉えられているヨガ、それぞれの人が考えているヨガ…

かつては、世間で思われているヨガと『本来の』ヨガの間に乖離はあっても、ヨガそのものには確固とした本質があると思っていたのだけれど。

そう、けれど…なのだ。

これといった答えが見つかったからブログに帰ってきたわけではなくて、相変わらずウロウロしてるのだけれど、そんなウロウロも書いてみようと思いなおしたところ。



またすぐに続きを書くかもしれないし、書けないかもしれないし、書かないかもしれない。