2017年10月1日日曜日

他力と自力

マイソールの朝





















何かを習うということは、先生に指導してもらうとはいえ、自分自身が努力をして何かを身に付け、変化していくということだと思う。




でも、皆が皆、そんな覚悟を持ってヨガのクラスに来ているとは限らない。




身体を動かしてもっと健康になりたい。

体重を減らしたい。

身体を柔らかくしたい、筋力を付けたい。

不調を改善したい。

心を落ち着けたい。




何らかの変化を求めてクラスに来ていることはたぶん、共通している。




でも、その変化を起こすのは自分だとはっきり認識している人もいれば、

漠然と、クラスに行けば変化が起こると期待している人もいるのだ。




極端な場合、マッサージを受けに行くような感覚の、全く受け身な人もいる。




そこまででなくても、自分と向き合うことをせずに、ただただ指導に従うだけの人もいる。




ヨガを教え始めた頃、その違いに気付かず、生徒さんと噛み合わないこともあった。







ヨガって、他力じゃなく自力で進めていくもの。

いやヨガだけじゃなく、どんな変化も、結局は自分にしか起こせない。







でも。




ヨガ以前、ダンスをしていた頃の私は、初めからそんな風にわかってたっけ?




ちっとも思い通りにならない身体と、嫌でも向き合うしかなくなって、

身体と向き合えば、心とも向き合うことになって。




他力から自力へ。

右往左往しながらたどり着いたのではなかったっけ。





長い長い道のりのどこかにいる。
そのことは皆同じ。



マイソールスタイルの練習について
http://yukkuritooku.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html


2017年9月25日月曜日

マイソール、という練習方法


アシュタンガが生まれた南インド、マイソール市の顔、マイソールパレス


















ヨガのクラス、と聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、生徒さんたちの前に先生がいて、先生がしたポーズを生徒全員が真似て、といった光景だろうし、それで概ね間違っていないと言えると思う。




でも、アシュタンガヨガの、本来の練習方法であるマイソールクラスの景色はそれとは違っている。




まず、生徒のやって来る時間がまちまち。

来た人から、黙ってマットを敷いて自分で練習を始める。

先生は、みんなの周りを見て回っていて、自分がポーズをとることはない。




ポーズの順番が全て決まっていて、生徒はそれを覚えて繰り返し練習する。

だから、みんなで一斉に練習する必要も、前で先生にデモンストレーションしてもらう必要もない。




もちろん、最初から皆がポーズの流れを覚えているわけではない。

始めてクラスに来た人は、まず、練習のはじめにすることになっている太陽礼拝を先生から習う。

息を吸いながら両手を挙げて、息を吐きながら上半身を倒して、と、動きと呼吸をひとつひとつ。

それを、繰り返し練習して、自分一人で出来るようになったら、先生が次のポーズを教えてくれる。

それが出来ればまた次のポーズ。

太陽礼拝から始まり、習ったところまでを日々繰り返し練習する。

そのようにしてひとつずつ、出来るポーズが増えていく。







クラスとして変わっている、と思われがちだけれど、実はそんなことは全くない。

私はこれとそっくりなお稽古事を身近に知っている。




私の母は、長らく生花の先生をしていたのだけれど、お稽古日には、生徒さんたちが三三五五やってきてお花を生け、生け上がったお花にそれぞれのアドバイスをもらって、また三三五五帰って行った。今思えばマイソールクラスと全く同じスタイルだ。




本来、先生から生徒への指導というのは、しばしばこんな風に、1人ひとりの違いや習熟度に合わせて、個別に行われていたはずなのだ。




ことヨガとなると、自分で練習を進めないといけないというので、初心者には無理だと思われることが多いのだけれど、実は真逆で、グループクラスのように、周りの人に合わせて動く必要が全くなく、その人の体力、柔軟性、筋力などに合わせて練習が進むから、ヨガをしたことのない人、身体を動かすことに慣れていない人でも問題なく続けられる。




それでも敷居が高い、と感じる人がいる。

それには、その人の、練習や学びへの向き合い方が関係すると思うのだけれど、そのお話はまた次に。



プラクティスについて書いた前回記事
http://yukkuritooku.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

2017年9月22日金曜日

プラクティス、とは?

たまにはポーズの写真を。マイソールにて、シルシャーサナ。























ヨガを始めたばかりの頃、スタジオに通いながらも、モヤモヤしていることがあった。




どのクラスを受けても、先生のガイドに従って、毎回違うポーズをするだけ。

始めて習ったうまくできないポーズも、1回して終わり。

次の週に同じクラスに行っても、そのポーズが出てくるとは限らない。




長い間、同じことを何度も繰り返して身に付けていくダンスの練習に馴染んできた私は、違和感でいっぱいだった。




腑に落ちないまま2か月ほど経ったあと、どんなものかもよく知らずに、アシュタンガヨガのクラスに。




毎回同じ順番で決まったポーズを繰り返し練習する。

順番を覚えて、自分で練習を進めていく。

どこへ行っても、先生がいてもいなくても、練習ができるようになる。

練習が、自分のものになる。




そこには慣れ親しんだ、プラクティスの姿があった。

いや、プラクティスってそもそもそういうことのはずではなかったのか。




ようやくモヤモヤが晴れ、その2か月後には、アシュタンガヨガ本来の練習方法であるマイソールクラスに通うようになった。




アシュタンガだけがヨガだというつもりはない、実際そうは思っていない。

でも、練習、プラクティスを続けることがヨガであるとは思っているし、私にとっての練習、プラクティスとは、日々繰り返し積み重ねること以外にない。




そして、そう考える私が、ヨガを始めて間なしに、マイソールクラスに出会えたのは、偶然ではないと信じている。







マイソールクラス、とは?

についてはまた次回。


2017年9月16日土曜日

ご縁が繋がるところ

ブッダガヤのお釈迦様が悟りを開かれた
場所に立つマハーボディ寺院






















2011年の暮れから2012年の年明けにかけて、ダライ・ラマ法王のカーラチャクラ灌頂に集まった人々で大混雑するブッダガヤにいた。
お釈迦様が悟りを開かれた聖地、とはいえ田舎町で、参加者用のテント村なども用意されるけれど、世界中から集まった人を収容するだけの宿泊施設はない。


そんな中、私は仏心寺と言う日本の小さなお寺が併設するゲストハウスで快適に過ごしていた。
たまたまインターネットで見つけて、1年近く前に予約を入れておいたのだ。
もちろんここ以外にもホテルやゲストハウスはあるけれど、予約を入れたところで、そこはインド、あてになんかならない。
でも、日本人のお坊さんは、当たり前だけどちゃんと部屋を確保してくれていた。


メールでやりとりしただけのそのお坊さんに実際会ってみると、ずいぶん若くて驚いた。
このお寺とゲストハウス、それからここで開いている貧しい子たちのための学校の面倒を見るために、年の半分をブッダガヤで過ごしていると聞いて、さらに驚く。


ゲストハウスのみんなで作った晩ご飯を食べる

















カーラチャクラの期間中、他の部屋のチベット人やドミトリーの日本の若い子たちと、晩御飯を一緒に作って食べたり、巡礼に行ったり、阿弥陀様の前でお勤めをしたり。
そんなこんなを、いつも静かに見守ってくれている若いお坊さん。
ブッダガヤは、仏教徒でなくともいるだけで平和な気持ちが溢れる聖地なのだけれど、仏心寺は、そこに集った人たちを、優しく結びつけてくれる、そんな場所だった。


その頃は思ってもみなかったのに、ヨガを始め、さらに少しずつ指導も始めていた頃、お坊さんから連絡をいただいた。
彼のお父さんがご住職をされている日本のお寺でイベントをすることになり、そこでヨガをしてほしいということだった。
それが、3年前の、初めての「テラキテ」だ。


聞いてみると、テラキテのチラシのデザインをされたのも、やはり仏心寺を訪れた方、イベント当日、カレーを販売していた方もそう。
ブッダの聖地でつながった人たちが、日本のお寺でまた集う。
ご縁、というものを感じずにいられない。


その後、月1回定期的にそのお寺でヨガのクラスをさせていただくようになり、またそこでもご縁が広がっている。



ご縁に導かれて、また新たなご縁に出会う。

それが人と人なのだなあと思う。























そして、来月8日、3度目の「テラキテ」。

今年のテーマは『結』。

これまでのご縁を大切に、また次の良きご縁が結ばれますように。



2017年8月28日月曜日

甘いお菓子と生存確認





久しぶりに会った友達がくれた手土産。

くまさんのイラストの黄色いパッケージから、くまさんの形のフィナンシェが出てきた。

一口づつ味わいながら、ぽつぽつと、昔のことを思い出す。




初めて会ったのは高校生のとき。

そのあと、ずっと音信不通だったのが、20代半ばで思わぬ再会をして、でも連絡先も交換しないままだったのに、さらにまた思わぬ場所で再開して、それからは、こうして数年おきに会っている。




改めて考えたことがなかったけれど、ご縁があるのだなあ。




私がビール好きなのを知っているから、自分はほとんど飲めないのに、今回も、ビールをおいしく飲めそうな場所をあれこれ探してくれて、そして私は、遠慮なくそれに乗っかる。




ランチを食べながら、ビールを飲みながら、お互いの好きなものについてたくさん話した。大笑いもした。




でも、過去のことや、未来のことは話さなかった。




いろんな夢を見て、それから、たくさんのものを手放しながら生きてきて、お互い、今にいる。




あの頃とは違う未来への不安と、そんな憂いなどなかったあの頃への懐かしさと。でも、それは口にせず。




この歳になると、たまに会うのは生存確認だよね、って笑う人と、またねと別れた。




優しい甘さの愛らしいくまさんのフィナンシェ。



ごちそうさま。





2017年7月22日土曜日

耳を傾ける























ヨガの練習をしていると、自分の身体の声を聞いて、というアドバイスをよく耳にするし、自分もよく口にする。




大切なことだけれど、自分の身体が今どんな状態なのか感じることって、意識してこなかった人にはとても難しい。




何ができて、何ができないのか。

どこまでならできて、どこから無理なのか。

今日は昨日とどう違うのか。

どこが、なぜ、緊張しているのか。

何が快適で、何が不快なのか。




それがわからないと、自分で自分の面倒を見てあげられない。




でも、私たちの意識はつい外側にばかり向かって行って、自分以外のことに気を取られてしまう。




でもこれって、身体だけのことじゃない。

心も同じ。

私は、身体の声を聞くのは得意だけれど、心の声を聞くのはちょっと苦手だったのかもしれない。

最近、そんなことをよく思う。




自分の内側を感じられるのは自分だけ。

何が起きているのか。どこへ行きたいのか。






耳を澄ませて、傾けて。





2017年6月19日月曜日

アタマとカラダの距離



ヨガ(この場合ポーズの練習という意味)やダンスや、その他のどんなスポーツでも武道でも、身体を使ってすることには、身体でわかる、という感覚が要る。

身体をあまり積極的に使ってこなかった人には、この感覚がない。そんな感覚があることすら知らない。あるいは、忘れてしまっている。

かつて、運動全般得意でなかった私がまさにそうで、18歳でダンスを始めてから、まずこの感覚を知るまでに長い時間がかかった。

でも、身体でわかる、ということを”わかる”ようになってからは、進歩が格段に早くなった。




ヨガを続けていると、時々、かつての私のような人に出会う。そういう人の中には、身体を動かすより、言葉での説明を好む人がいて、頭でわかろうとしているのだな、と思う。

言葉での理解が、身体で”わかる”ことを助けてもくれるのだけれど、言葉で聞いたからといって、それだけですぐに何かができるようになるわけではない。耳で聞いて、頭で理解することと、それを実際に身体でやってみて、その感覚をリアルに感じられることには距離がある。




この距離の存在を知らず、すぐにできないことで、自分には向いていないだとか、無理なんだとか考えてしまう人もいる。

あるいはこの距離にも個人差があるから、他の人と比べて落胆したり。

または、頭でわかっただけで、できていると勘違いしてしまったり。




全部、かつての自分のことだけれど。




じゃあ、どうすれば良いか。




その距離の間を、継いでくれるのが練習。身体を使ってトライアンドエラーを繰り返して、ある時ついに、言葉で聞いて頭で理解したことを、身体レベルで”わかる”ようになる。




身体を使うことに慣れている人はみんなこのことを知っている。




つまり、

つべこべ言わずに身体を動かす、とにかくやってみる。

できなければ、練習、練習、練習。




特にそれまで頭で考えることが先行しがちだった人にとっては、この切り替えが難しいことも、経験上よくわかる。

だからこそ、そのお手伝いができればいいなとも思う。




聞いただけで何かができるようになる、魔法の呪文なんてなくて。



でも、やり続けることが、魔法を超える美しい時間を、与えてくれたりもするから。