2017年12月31日日曜日

マイソールの大晦日

いつもと変わらないマーケット。
日本では賑わう大晦日の市場の映像が流れてるんだろうな。




















今日、練習はお休み。

だけど、大晦日だからじゃなく、単に日曜日だから。

(もともとインドでは、1月1日の新年って特にお祝いはしないらしい。その代わり、彼らには彼らのいろんなお祭りが年中たくさんある。)




明日もまた、いつも通りの月曜日、もちろん朝の練習も、午後のクラスもある。




練習を休むのは、週に1回の決まった曜日(ここでは日曜日)、新月と満月のムーンデイ、それから、女性の場合は生理のとき。あるいは熱があるような体調不良のとき。以上。




昨日のカンファレンスでも、いかに仕事や他の生活と折り合いをつけながら、休まず練習を続けるかということが話題になっていた。




1日くらい休めないの?




という問いかけを、家族や友人や職場の同僚から、何度となく投げかけられつつ、そしてそれに答えないのを奇妙がられつつ、練習を続ける。




先生ですら、同じ経験をしてるなんて、驚きつつなんだか嬉しい。




なぜ休まないのか、についてはまた改めてゆっくり書きたいと思いつつ。




とりあえず、何も特別なことはないながら、


1年の初めの日の朝を、ここマイソールでの練習でスタートできるなんて、と、ちょっと興奮気味にマイソールの大晦日を過ごしている。



2017年12月21日木曜日

インドの時間

南インド、マイソール、
ヨガシャラのあるこのエリアは大きな家ばかり























インドへ来て20日以上が経っていることに驚く。

初めの1週間ほどは、落ち着くためにしなければいけないことがあれこれあって、なかなか時間が過ぎない。




そのあとは、毎日、練習に行きチャンティングやサンスクリット語のクラスに行き、その合間にご飯を食べてる間に、あっという間に時間が過ぎて、ふと気付いた時にびっくりする。

毎回そんな感じ。




そんなバタバタの日々の中、




何をしにここへ来たのかな。




そんな問いがよぎる。




ヨガの練習、と言えばそれまでだけれど、いつもと同じ練習をここへ来てまでする理由は何なのか。

それは、なぜヨガをしているのかという問いにもつながる。






むしろその問いと向き合うためにここにきているような気もする。



2017年10月1日日曜日

他力と自力

マイソールの朝





















何かを習うということは、先生に指導してもらうとはいえ、自分自身が努力をして何かを身に付け、変化していくということだと思う。




でも、皆が皆、そんな覚悟を持ってヨガのクラスに来ているとは限らない。




身体を動かしてもっと健康になりたい。

体重を減らしたい。

身体を柔らかくしたい、筋力を付けたい。

不調を改善したい。

心を落ち着けたい。




何らかの変化を求めてクラスに来ていることはたぶん、共通している。




でも、その変化を起こすのは自分だとはっきり認識している人もいれば、

漠然と、クラスに行けば変化が起こると期待している人もいるのだ。




極端な場合、マッサージを受けに行くような感覚の、全く受け身な人もいる。




そこまででなくても、自分と向き合うことをせずに、ただただ指導に従うだけの人もいる。




ヨガを教え始めた頃、その違いに気付かず、生徒さんと噛み合わないこともあった。







ヨガって、他力じゃなく自力で進めていくもの。

いやヨガだけじゃなく、どんな変化も、結局は自分にしか起こせない。







でも。




ヨガ以前、ダンスをしていた頃の私は、初めからそんな風にわかってたっけ?




ちっとも思い通りにならない身体と、嫌でも向き合うしかなくなって、

身体と向き合えば、心とも向き合うことになって。




他力から自力へ。

右往左往しながらたどり着いたのではなかったっけ。





長い長い道のりのどこかにいる。
そのことは皆同じ。



マイソールスタイルの練習について
http://yukkuritooku.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html


2017年9月25日月曜日

マイソール、という練習方法


アシュタンガが生まれた南インド、マイソール市の顔、マイソールパレス


















ヨガのクラス、と聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、生徒さんたちの前に先生がいて、先生がしたポーズを生徒全員が真似て、といった光景だろうし、それで概ね間違っていないと言えると思う。




でも、アシュタンガヨガの、本来の練習方法であるマイソールクラスの景色はそれとは違っている。




まず、生徒のやって来る時間がまちまち。

来た人から、黙ってマットを敷いて自分で練習を始める。

先生は、みんなの周りを見て回っていて、自分がポーズをとることはない。




ポーズの順番が全て決まっていて、生徒はそれを覚えて繰り返し練習する。

だから、みんなで一斉に練習する必要も、前で先生にデモンストレーションしてもらう必要もない。




もちろん、最初から皆がポーズの流れを覚えているわけではない。

始めてクラスに来た人は、まず、練習のはじめにすることになっている太陽礼拝を先生から習う。

息を吸いながら両手を挙げて、息を吐きながら上半身を倒して、と、動きと呼吸をひとつひとつ。

それを、繰り返し練習して、自分一人で出来るようになったら、先生が次のポーズを教えてくれる。

それが出来ればまた次のポーズ。

太陽礼拝から始まり、習ったところまでを日々繰り返し練習する。

そのようにしてひとつずつ、出来るポーズが増えていく。







クラスとして変わっている、と思われがちだけれど、実はそんなことは全くない。

私はこれとそっくりなお稽古事を身近に知っている。




私の母は、長らく生花の先生をしていたのだけれど、お稽古日には、生徒さんたちが三三五五やってきてお花を生け、生け上がったお花にそれぞれのアドバイスをもらって、また三三五五帰って行った。今思えばマイソールクラスと全く同じスタイルだ。




本来、先生から生徒への指導というのは、しばしばこんな風に、1人ひとりの違いや習熟度に合わせて、個別に行われていたはずなのだ。




ことヨガとなると、自分で練習を進めないといけないというので、初心者には無理だと思われることが多いのだけれど、実は真逆で、グループクラスのように、周りの人に合わせて動く必要が全くなく、その人の体力、柔軟性、筋力などに合わせて練習が進むから、ヨガをしたことのない人、身体を動かすことに慣れていない人でも問題なく続けられる。




それでも敷居が高い、と感じる人がいる。

それには、その人の、練習や学びへの向き合い方が関係すると思うのだけれど、そのお話はまた次に。



プラクティスについて書いた前回記事
http://yukkuritooku.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

2017年9月22日金曜日

プラクティス、とは?

たまにはポーズの写真を。マイソールにて、シルシャーサナ。























ヨガを始めたばかりの頃、スタジオに通いながらも、モヤモヤしていることがあった。




どのクラスを受けても、先生のガイドに従って、毎回違うポーズをするだけ。

始めて習ったうまくできないポーズも、1回して終わり。

次の週に同じクラスに行っても、そのポーズが出てくるとは限らない。




長い間、同じことを何度も繰り返して身に付けていくダンスの練習に馴染んできた私は、違和感でいっぱいだった。




腑に落ちないまま2か月ほど経ったあと、どんなものかもよく知らずに、アシュタンガヨガのクラスに。




毎回同じ順番で決まったポーズを繰り返し練習する。

順番を覚えて、自分で練習を進めていく。

どこへ行っても、先生がいてもいなくても、練習ができるようになる。

練習が、自分のものになる。




そこには慣れ親しんだ、プラクティスの姿があった。

いや、プラクティスってそもそもそういうことのはずではなかったのか。




ようやくモヤモヤが晴れ、その2か月後には、アシュタンガヨガ本来の練習方法であるマイソールクラスに通うようになった。




アシュタンガだけがヨガだというつもりはない、実際そうは思っていない。

でも、練習、プラクティスを続けることがヨガであるとは思っているし、私にとっての練習、プラクティスとは、日々繰り返し積み重ねること以外にない。




そして、そう考える私が、ヨガを始めて間なしに、マイソールクラスに出会えたのは、偶然ではないと信じている。







マイソールクラス、とは?

についてはまた次回。


2017年9月16日土曜日

ご縁が繋がるところ

ブッダガヤのお釈迦様が悟りを開かれた
場所に立つマハーボディ寺院






















2011年の暮れから2012年の年明けにかけて、ダライ・ラマ法王のカーラチャクラ灌頂に集まった人々で大混雑するブッダガヤにいた。
お釈迦様が悟りを開かれた聖地、とはいえ田舎町で、参加者用のテント村なども用意されるけれど、世界中から集まった人を収容するだけの宿泊施設はない。


そんな中、私は仏心寺と言う日本の小さなお寺が併設するゲストハウスで快適に過ごしていた。
たまたまインターネットで見つけて、1年近く前に予約を入れておいたのだ。
もちろんここ以外にもホテルやゲストハウスはあるけれど、予約を入れたところで、そこはインド、あてになんかならない。
でも、日本人のお坊さんは、当たり前だけどちゃんと部屋を確保してくれていた。


メールでやりとりしただけのそのお坊さんに実際会ってみると、ずいぶん若くて驚いた。
このお寺とゲストハウス、それからここで開いている貧しい子たちのための学校の面倒を見るために、年の半分をブッダガヤで過ごしていると聞いて、さらに驚く。


ゲストハウスのみんなで作った晩ご飯を食べる

















カーラチャクラの期間中、他の部屋のチベット人やドミトリーの日本の若い子たちと、晩御飯を一緒に作って食べたり、巡礼に行ったり、阿弥陀様の前でお勤めをしたり。
そんなこんなを、いつも静かに見守ってくれている若いお坊さん。
ブッダガヤは、仏教徒でなくともいるだけで平和な気持ちが溢れる聖地なのだけれど、仏心寺は、そこに集った人たちを、優しく結びつけてくれる、そんな場所だった。


その頃は思ってもみなかったのに、ヨガを始め、さらに少しずつ指導も始めていた頃、お坊さんから連絡をいただいた。
彼のお父さんがご住職をされている日本のお寺でイベントをすることになり、そこでヨガをしてほしいということだった。
それが、3年前の、初めての「テラキテ」だ。


聞いてみると、テラキテのチラシのデザインをされたのも、やはり仏心寺を訪れた方、イベント当日、カレーを販売していた方もそう。
ブッダの聖地でつながった人たちが、日本のお寺でまた集う。
ご縁、というものを感じずにいられない。


その後、月1回定期的にそのお寺でヨガのクラスをさせていただくようになり、またそこでもご縁が広がっている。



ご縁に導かれて、また新たなご縁に出会う。

それが人と人なのだなあと思う。























そして、来月8日、3度目の「テラキテ」。

今年のテーマは『結』。

これまでのご縁を大切に、また次の良きご縁が結ばれますように。



2017年8月28日月曜日

甘いお菓子と生存確認





久しぶりに会った友達がくれた手土産。

くまさんのイラストの黄色いパッケージから、くまさんの形のフィナンシェが出てきた。

一口づつ味わいながら、ぽつぽつと、昔のことを思い出す。




初めて会ったのは高校生のとき。

そのあと、ずっと音信不通だったのが、20代半ばで思わぬ再会をして、でも連絡先も交換しないままだったのに、さらにまた思わぬ場所で再開して、それからは、こうして数年おきに会っている。




改めて考えたことがなかったけれど、ご縁があるのだなあ。




私がビール好きなのを知っているから、自分はほとんど飲めないのに、今回も、ビールをおいしく飲めそうな場所をあれこれ探してくれて、そして私は、遠慮なくそれに乗っかる。




ランチを食べながら、ビールを飲みながら、お互いの好きなものについてたくさん話した。大笑いもした。




でも、過去のことや、未来のことは話さなかった。




いろんな夢を見て、それから、たくさんのものを手放しながら生きてきて、お互い、今にいる。




あの頃とは違う未来への不安と、そんな憂いなどなかったあの頃への懐かしさと。でも、それは口にせず。




この歳になると、たまに会うのは生存確認だよね、って笑う人と、またねと別れた。




優しい甘さの愛らしいくまさんのフィナンシェ。



ごちそうさま。





2017年7月22日土曜日

耳を傾ける























ヨガの練習をしていると、自分の身体の声を聞いて、というアドバイスをよく耳にするし、自分もよく口にする。




大切なことだけれど、自分の身体が今どんな状態なのか感じることって、意識してこなかった人にはとても難しい。




何ができて、何ができないのか。

どこまでならできて、どこから無理なのか。

今日は昨日とどう違うのか。

どこが、なぜ、緊張しているのか。

何が快適で、何が不快なのか。




それがわからないと、自分で自分の面倒を見てあげられない。




でも、私たちの意識はつい外側にばかり向かって行って、自分以外のことに気を取られてしまう。




でもこれって、身体だけのことじゃない。

心も同じ。

私は、身体の声を聞くのは得意だけれど、心の声を聞くのはちょっと苦手だったのかもしれない。

最近、そんなことをよく思う。




自分の内側を感じられるのは自分だけ。

何が起きているのか。どこへ行きたいのか。






耳を澄ませて、傾けて。





2017年6月19日月曜日

アタマとカラダの距離



ヨガ(この場合ポーズの練習という意味)やダンスや、その他のどんなスポーツでも武道でも、身体を使ってすることには、身体でわかる、という感覚が要る。

身体をあまり積極的に使ってこなかった人には、この感覚がない。そんな感覚があることすら知らない。あるいは、忘れてしまっている。

かつて、運動全般得意でなかった私がまさにそうで、18歳でダンスを始めてから、まずこの感覚を知るまでに長い時間がかかった。

でも、身体でわかる、ということを”わかる”ようになってからは、進歩が格段に早くなった。




ヨガを続けていると、時々、かつての私のような人に出会う。そういう人の中には、身体を動かすより、言葉での説明を好む人がいて、頭でわかろうとしているのだな、と思う。

言葉での理解が、身体で”わかる”ことを助けてもくれるのだけれど、言葉で聞いたからといって、それだけですぐに何かができるようになるわけではない。耳で聞いて、頭で理解することと、それを実際に身体でやってみて、その感覚をリアルに感じられることには距離がある。




この距離の存在を知らず、すぐにできないことで、自分には向いていないだとか、無理なんだとか考えてしまう人もいる。

あるいはこの距離にも個人差があるから、他の人と比べて落胆したり。

または、頭でわかっただけで、できていると勘違いしてしまったり。




全部、かつての自分のことだけれど。




じゃあ、どうすれば良いか。




その距離の間を、継いでくれるのが練習。身体を使ってトライアンドエラーを繰り返して、ある時ついに、言葉で聞いて頭で理解したことを、身体レベルで”わかる”ようになる。




身体を使うことに慣れている人はみんなこのことを知っている。




つまり、

つべこべ言わずに身体を動かす、とにかくやってみる。

できなければ、練習、練習、練習。




特にそれまで頭で考えることが先行しがちだった人にとっては、この切り替えが難しいことも、経験上よくわかる。

だからこそ、そのお手伝いができればいいなとも思う。




聞いただけで何かができるようになる、魔法の呪文なんてなくて。



でも、やり続けることが、魔法を超える美しい時間を、与えてくれたりもするから。





2017年6月18日日曜日

カルマヨガと夕焼け
















最寄駅から置いてあった自転車に乗って家に向かう。

ヨガの大先輩から、彼女がインドの先生から学んだことをシェアしてもらった帰り道。

テーマであったアヴィヤーサ(無執着)についてのお話が一旦終わったあと、話題がカルマヨガになったことを思い出していた。

自分に与えられたことを、何も期待せず、報いを求めず、結果を問わずにやり抜くのがカルマヨガ。

ここでもやっぱり無執着が鍵なのだなあ、などとぼんやり考えながらペダルを漕ぐ。




駅の周りの商業地域から、家々の並ぶエリアへ入っていく。私にとって日常そのものの空間に戻ったそのときだった。不意に、カルマヨガの意味が、ストンと腑に落ちた。




今の私にとってのカルマヨガは、日常のあれこれを、歓びながら、熱心に行うこと。




バガヴァッド・ギーターを読んだり、今日のようなお話を聞いたりして、そんなことはわかっているつもりだった。でもそれは頭の中でだけだったのだと気づく。

だから、実際には、日常のあれこれに時間を取られることに、どこか不満を持っていたことにも。




それが自分の望むことであれ、そうせざるをえないことであれ、日々のことを、ただただ大切にする。

それまで、言葉のみであったものが、全身を包む感覚になって、みぞおちのあたりがふっと軽くなったのがわかった。




住宅街の片隅に今も少しだけ残っている田んぼに田植えをするおじさん、その脇の道で犬を散歩させているおばあさん。

みんなカルマヨガをしてるんだなあ。




軽くなった心と身体で、一人勝手に納得して、家の手前の最後の角を曲がる。

そのあとの夕焼けは、いつもより色鮮やかだった。














2017年5月15日月曜日

犀の角のように





大乗仏教の、できる限り他者を助けなさいという考え方が好きで、
だからいつも、人との関わりの中で自分にできることがあるなら、歓んでしたいと思っている。

でも、

ときに、ただ相手に都合よく使われ、磨り減ってしまうこともある。
と言って、自分の身を守ろうと、自分の利益になる関係だけを選ぶ、というのは違う。

いつも、この2つの間でゆらゆらしてきた。



『犀の角のようにただ独り歩め』

「ブッダのことば」第1章の「犀の角」で、修行者のあるべき姿を示しながら、繰り返されるフレーズ。
独り歩め、と言いながら、真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ、とも言う。

一見矛盾があるように見えることばたちを噛みしめながら読んでいたとき、すっとどこからか聞こえてきた声があった。

「良き友のためにこそ、尽くしなさい」


私の力は些細なもの、時間は限られたもの。
身の丈を知れば、誰とどう過ごすべきなのか、自ずと見えてくるのかもしれない。

そして、

誰といても、私は私として、流されない、信頼できる自分であることが大切。
犀の角であれるように。


2017年5月10日水曜日

ブッダ・プルニマに



ダライ・ラマの本などは読んでいるけれど、シンプルなブッダの言葉にこれまで触れたことがなかった。中村元さんの訳も初めてだ。


もう少しスラスラと読めるかと思っていたら、本の厚みの半分近くが訳者の註で、原文のパーリ語でなんと表現されているかを交えながら、翻訳面の解説、哲学面の解説が入り混じっている。本文と註を行ったり来たり、なかなか進まない。


でも、これが予想外の面白さだった。


ヨガの哲学や、その背後にあるインドの哲学、それからサンスクリット語を、うっすらではあるけれど学んできた今だから、その中で聴きかじったサンスクリット語と似た言葉を見つけ、それが仏教の教えの中でどのように扱われているかを知ることに、心が躍る。


5年前だったら面白いどころか、うんざりしてたかもしれない。


チベット仏教の本を読んでいたから、ヨガ・スートラやバガヴァッド・ギーターを読んだとき、とても理解しやすかった。


そして、それらを読んだから今、この本が面白い。


いつも、ものごとは正しい順番でやってきているのかもしれない。
日々の小さなことについ気をとられて、見逃してしまったりもするけれど。


気付けば今日は、インドでゴータマ・ブッダの誕生日が祝われる、ブッダ・プルニマの日。






2017年4月23日日曜日

「何も心配しなくていい。」



「何も心配しなくていい。」

時々思い出す、安養寺のご住職の言葉。
今朝もふと思い出し、そしてその通りになった。
昨日の憂鬱の種が、洗い流されたように綺麗に取り除かれて。
必要なものはやってくる。そうでないものは去っていく。

寄り添ってくれる全ての人に感謝。



今日はその安養寺で、月1回のヨガの日。
多くはないけれどリピートしてくださる人が出てきて、ありがたい。



ヨガのあと、いつものように参加してくれたメンバー数人とモーニング。
何となく、同じ空気感の人が集まって、誰もが自然に、無理なくそこにいる感じ。

こういう時間を、積み重ねていきたい。


次回は5月14日。