2017年6月19日月曜日

アタマとカラダの距離



ヨガ(この場合ポーズの練習という意味)やダンスや、その他のどんなスポーツでも武道でも、身体を使ってすることには、身体でわかる、という感覚が要る。

身体をあまり積極的に使ってこなかった人には、この感覚がない。そんな感覚があることすら知らない。あるいは、忘れてしまっている。

かつて、運動全般得意でなかった私がまさにそうで、18歳でダンスを始めてから、まずこの感覚を知るまでに長い時間がかかった。

でも、身体でわかる、ということを”わかる”ようになってからは、進歩が格段に早くなった。




ヨガを続けていると、時々、かつての私のような人に出会う。そういう人の中には、身体を動かすより、言葉での説明を好む人がいて、頭でわかろうとしているのだな、と思う。

言葉での理解が、身体で”わかる”ことを助けてもくれるのだけれど、言葉で聞いたからといって、それだけですぐに何かができるようになるわけではない。耳で聞いて、頭で理解することと、それを実際に身体でやってみて、その感覚をリアルに感じられることには距離がある。




この距離の存在を知らず、すぐにできないことで、自分には向いていないだとか、無理なんだとか考えてしまう人もいる。

あるいはこの距離にも個人差があるから、他の人と比べて落胆したり。

または、頭でわかっただけで、できていると勘違いしてしまったり。




全部、かつての自分のことだけれど。




じゃあ、どうすれば良いか。




その距離の間を、継いでくれるのが練習。身体を使ってトライアンドエラーを繰り返して、ある時ついに、言葉で聞いて頭で理解したことを、身体レベルで”わかる”ようになる。




身体を使うことに慣れている人はみんなこのことを知っている。




つまり、

つべこべ言わずに身体を動かす、とにかくやってみる。

できなければ、練習、練習、練習。




特にそれまで頭で考えることが先行しがちだった人にとっては、この切り替えが難しいことも、経験上よくわかる。

だからこそ、そのお手伝いができればいいなとも思う。




聞いただけで何かができるようになる、魔法の呪文なんてなくて。



でも、やり続けることが、魔法を超える美しい時間を、与えてくれたりもするから。





2017年6月18日日曜日

カルマヨガと夕焼け
















最寄駅から置いてあった自転車に乗って家に向かう。

ヨガの大先輩から、彼女がインドの先生から学んだことをシェアしてもらった帰り道。

テーマであったアヴィヤーサ(無執着)についてのお話が一旦終わったあと、話題がカルマヨガになったことを思い出していた。

自分に与えられたことを、何も期待せず、報いを求めず、結果を問わずにやり抜くのがカルマヨガ。

ここでもやっぱり無執着が鍵なのだなあ、などとぼんやり考えながらペダルを漕ぐ。




駅の周りの商業地域から、家々の並ぶエリアへ入っていく。私にとって日常そのものの空間に戻ったそのときだった。不意に、カルマヨガの意味が、ストンと腑に落ちた。




今の私にとってのカルマヨガは、日常のあれこれを、歓びながら、熱心に行うこと。




バガヴァッド・ギーターを読んだり、今日のようなお話を聞いたりして、そんなことはわかっているつもりだった。でもそれは頭の中でだけだったのだと気づく。

だから、実際には、日常のあれこれに時間を取られることに、どこか不満を持っていたことにも。




それが自分の望むことであれ、そうせざるをえないことであれ、日々のことを、ただただ大切にする。

それまで、言葉のみであったものが、全身を包む感覚になって、みぞおちのあたりがふっと軽くなったのがわかった。




住宅街の片隅に今も少しだけ残っている田んぼに田植えをするおじさん、その脇の道で犬を散歩させているおばあさん。

みんなカルマヨガをしてるんだなあ。




軽くなった心と身体で、一人勝手に納得して、家の手前の最後の角を曲がる。

そのあとの夕焼けは、いつもより色鮮やかだった。