2018年11月13日火曜日

残念だけど残念じゃないこと

とは言えなんだか捨てるのが忍びないチケット






















先月の入院から順調に回復した母が、退院してからも予想以上に落ち着いているので、

諦めていたダライ・ラマ法王の法話に参加しようと、

今月に入ってから、横浜行きを企んでいた。




ところが、

なんとか段取りをつけて、行きの夜行バスと入場券を手配したところで、

落ち着いていたはずの母が1日に2度も家で転んで、

幸い怪我はなかったけれど、急激に足が弱っていることに気づかされた。




おまけに、子供の頃いつも一緒に遊んだといういとこの訃報まで届いて落ち込む母を見て、

結局横浜行きは取り止めにすることにした。




一番お安い席とはいえ入場券は購入済み、

バスのチケット代も全額は戻ってこない。

何より法話に行きたかったから、

ずっと以前の私なら、さぞ苛立っていたと思う。




でも、今の私は、特にがっかりもしていない。

もちろんやせ我慢などではなくて。







母その他、自分以外の人や物事に振り回されることに慣れてしまった、ということもないとはいえない。

ただ、それだけとどこかに恨みが残りそう。

でもちょっと違うのだ。




せっかくなので、なぜなのか改めて考えてみる。




そもそも、

今回行けなかったことは、母のせいだと思っていない。

一見、誰か、や、何か、のせいであるように見えることも、

いつかの、私自身の行いが回り回って影響している、と思っている、

たとえそのつながりが見えなかったとしても。


さらに言えば、最終的に行かないと決めたのは私自身であって母ではない。



前回のブログにもチラリと書いたけれど、
ハハのムスメ



自分の身に起きることはすべて自分のせいだと考えれば、

誰かや何かを恨むことをしないで済む。




それに加えて、

行けなかったことが必ずしも残念な、マイナスなこととは限らないとも思っている。

行かなかったせいで、お釣りがくるくらい楽しい出来事に出会うかもしれないし、

逆に、行けていたとしても、来なけりゃよかったと思う出来事に出会うかもしれない。




つまり、

近くから見ると、

母のせいで起きたネガティブなこと、のように見えるけれど、

離れて遠くからみれば、

私自身が招いたポジティブなこと、になるかもしれない。







もちろんこれは私が考えたアイデアではなくて、 
こんな風に思えるようになったのは、

仏教その他、

インドやチベットの古い教えのおかげ。 






空いた時間、

母を連れて紅葉でも見に行こう。

それはそれでワクワクする。


















2018年10月4日木曜日

ハハのムスメ

50年、生花を教えていた母。
























88歳の母と、一人っ子の私。

表向きは、いつもニコニコ穏やかで愛らしい母と、その面倒をよく見る愛想のいい娘、ということになっている。たぶん。




もちろん、現実はそんなに美しくない。




ふわふわした見かけとまるで違って、一人で親の借金を返済し、家を買い、姪甥の面倒まで見てきた、昭和一桁生まれの母の強さたるや相当なもの。自分の成し遂げてきたことに絶大な自信を持っているから、自分の望むように生きれば娘も幸せであると信じて疑わなかった。




私のすること、選ぶもの、全てが気に入らない。そればかりか、全力で阻止してくる。私の人生は、この母との葛藤の日々だった。ようやく私は私であることを認めさせた時には、母は、少しずつ私の助けを要する状態になっていて、別の意味で私の人生を左右する存在になった。




言いたいことの1つや2つ、どころか100や200はあるけれど、もうそんな言葉は届かないところに行ってしまった母。

やりたい放題やって逃げられたようで、どこか腑に落ちない。でも、何か言ってみたところで今さら何が変わるわけでもない。母に何かしら伝わるとも思えない。

それどころか、もう私無しでは生きられない母に負の感情を抱くことは、罪悪感になって跳ね返って来さえする。




だからあれこれ考えないように淡々と暮らしているつもりだった。

常に母を最優先にするその熱心さを自分で不思議に思いながらも。




でも、そうして何年も過ごして、

とうとう、気がついたことがある。




甲斐甲斐しく付き添う笑顔や、やれやれしょうがないというため息のずっと奥に、




私が私であることを認められないままでいる、私自身がいたのではなかったか。いつもどこかに、母に言われ続けたように私は何かしら間違っていて、不十分な人間だという意識と、それゆえの後ろめたさがあったのではないか。

そんな意識があること、そしてそれがどれほど自分を縛っていたかに気づき始めたとき、感情がひどく波打って、今までと同じように母と向き合うことが難しくなった。




どんなことも、母のせいにするつもりはない。この身に起きることは全て私ゆえだと、これは仏教やヨガから学んだ大切なこと。おかげで、人や状況をとことん恨むようなことはしないで済む。それでも、時々襲ってくる強烈な苛立ちを、正直持て余した。




そんなあれこれを全部、今日、ここで認めてあげようと思う。思うことは限りなくあっても、なんとか母と暮らす自分、それでもやっぱり、元気でいてほしいと願い、笑ってくれれば嬉しいと思う自分を、まあよくやってるんじゃない、と認めてあげようと思う。






何度目かの、母の入院を前に。



2018年9月27日木曜日

モヤモヤ期

内容がモヤモヤなのですっきりな写真を。

















そもそも疑問を持ったのは、ヨガのルーツ的なこと。

まことしやかにヨガ哲学なるものが語られているけれど、実は幾つかのものが混ざって、混乱している模様。

では何がどこでどう混ざって、混ざった上で整合性を持って統合されているのか、それともただ本当は無関係なものが同じものとして語られてしまっているのか、それとも…

あるときからそんなモヤモヤが始まって、それ以来ずっとそのモヤモヤを追いかけ回している。

おかげで少し見えてきたけれど。




面倒な奴だと思う人は思うだろうけど、

気になるものは気になる。




その問いは、何を求めて、目指して、ヨガをするのか、ということにつながって、その先の、何を目指して生きるのかということにもつながるから。




ますます面倒、というか、いい歳して若造のようだけれど、

でもいい歳だから考えてしまうんだと思う。




少なくとも、

呼吸に意識を向けながら身体を使ってポーズをとることに良い効果がたくさんあるのは身を以て知っている。
その狭い意味においてのヨガは、たくさんの人の役に立つとわかっているから、自分の練習はもちろん続けるし、教えることは楽しい。




でも、身を以て知っている効果の先に、果たして何があるのか、それは自分が生きていく上で大切にしたいことをどこまで助けてくれるのだろうかと考える。



そして、自分が大切にしたいことってなんだったっけと改めて考える。




2018年9月19日水曜日

沈黙の理由


この絵は本文と関係があるかもしれないしないかもしれない
























このブログ、サボっていてたというわけではなくて更新できずにいた。

ヨガはヨガです、と勢いよく書いた後、で、ヨガってなんなの?という疑問のるつぼにはまって出てこれなくなった。
まあそれはそれで、面白くもあるのだけれど。

世間で思われているヨガ、ヨガの世界で捉えられているヨガ、それぞれの人が考えているヨガ…

かつては、世間で思われているヨガと『本来の』ヨガの間に乖離はあっても、ヨガそのものには確固とした本質があると思っていたのだけれど。

そう、けれど…なのだ。

これといった答えが見つかったからブログに帰ってきたわけではなくて、相変わらずウロウロしてるのだけれど、そんなウロウロも書いてみようと思いなおしたところ。



またすぐに続きを書くかもしれないし、書けないかもしれないし、書かないかもしれない。




2018年2月14日水曜日

インドのその後


ちゃんとシャラに行ってましたよという証拠写真























インドで練習することの最大の意味は、ヨガとは何か、を、それが生まれた地で深く感じられることだと思う。




感じたことを形にするまでにはまだまだ修行が足りないとはいえ。


今に始まった事ではないけれど、
まるでヨガではないものが、ヨガとして伝えられたり、ヨガとして受け入れられたりしているのを見て、正直もやもやしている。



とりあえず、もうずっと言い続けているし、知ってる人には当たり前のことなんだけれど、


ヨガは筋トレやストレッチのような身体のエクササイズではない。

ヨガを通して身体に起こることを、解剖学や生理学の観点から説明することは可能だろうけれど、それはヨガそのものではない。




アーサナは、練習を積み重ねて、自分の身体を通して経験するものであって、座って人から学ぶものなんかじゃない。

そしてアーサナを形として完成させることは、ヨガでは絶対にない。




ヨガはヨガです!

と、大阪の真ん中で叫びたい。




で、そのヨガとはじゃあ何なのか、を、もっとちゃんと伝えていけるようになりたい。





どこにいても旅は続く。



2018年1月12日金曜日

見つめる先にあるもの

毎朝たくさんの鳥たちの声とともに目が覚める





















インドに来て、ひと月半。


日常のあれこれに煩わされない分、ギリギリのところまで、自分と向き合うことになる。




いや、以前は、そこまで向き合えなかったのかもしれない。

どこかで、目を背けたり、少し逃げたり。

今回は、それをせず、後に引かない自分がいる。

そうせざるをえない時が来たのか、それとも、それができるようになったと少しは喜んでいいのか。




ここで目にすること、

耳にすること、感じること。

その中での自分の振る舞い。



それらが引き金になって、


毎日のように、気付くことがある。




そうだったのか、と腑に落ちること。

そうだったよね、と思い出すこと。

そうだと知っていたのに、見えないふりをしていたこと。






今日まで生きてくる間に、

幾重にも重ねてしまった殻のようなものを、

一枚一枚、剥がしていく。

痛い思いもしながら。




なぜそんなことをするのか。

楽なことではないのに。






でも、その先にしか、望むものはないと思うから。