2019年7月17日水曜日

心を眺める

お悔やみにいただいた百合が開いた
























小さな医院の、診察室の前の椅子に座って、名前を呼ばれるのを待つ間、部屋の中を見回す。




中身がわかるようにシールが貼られたプラスチックの何段にも重なった薄い引き出し、その上にも、処置用の用具らしい長いカタカナの名前が書かれた箱。



敢えて、来たことのない医院を選んだのだけれど、どこの風景も似たり寄ったり。母のことを考えそうになったとき、診察室から名前を呼ばれた。



受付で教えてもらった1番近くの薬局は、母と最後に鉢植えの花を買ったお店の数件隣で、その向かいは母が気に入っていた和菓子屋さんだ。



「お薬手帳はお持ちですか?」

これも、母と一緒に何度も聞いたお決まりの質問。

ありません、と言うと、可愛らしい犬のイラストのを渡された。



家に向かい自転車で走ると、母の通っていた眼科の前を通る。




これでもか、と、母を思わせるものが立ち現れる。避けようもないのだ、同じ町でずっと一緒に暮らしてきたのだから。




でも、

そこで寂しさや悲しみを感じるのは、立ち現れたものごとのせいではないことを、幸い私は知っている。




以前と変わらずそこにある景色に、

母のことを結びつけているのは私の心。




そうして自らざわざわする心を、少しだけ離れて眺めている私がいる。

だから、沸き起こった感情に、飲み込まれずに済む。




気持ちが沈むことも泣くこともあるけれど、そんな自分を、なんとか取り扱えている。




仏教やヨガや、古の教えは、私たちの心こそが、私たちを苦しめるのだと知らせてくれるし、その心をどう取り扱えばいいのかを示してくれる。




そういう教えに、少しずつ触れてきたおかげで、始終波立つ心との間に、わずかながら距離を保てるようになったことを、母の不在を通して感じる日々。




もともと感情的な方だから、また何時大波が起きるかもしれないとは思うものの、




そのままどこかに流されてしまうようなことはもう無いと、これまで持てたことのない自信が微かにある。





寂しくて、悲しくて、幸せ。









調子に乗ってあれもこれもと睡眠時間を削って動き回っていたら、膀胱炎になりました。

血尿が出てびっくりして、祝日だったので休日診療に行き、大量の麦茶を飲んで、もらった抗生物質を飲んだら症状は消えました。

が、尿検査の結果が悪くて脅されていたので、念のため近所の医院へ。

でもやっぱりほぼ治ってたみたいです。







2019年7月12日金曜日

扉をもう一度

届いたばかりのアフリカ最新号

























「アフリカにチベットのこと書いてええのん?」

ほろ酔いで言った、くだらない冗談から始まったのだ。



インド、ネパールのチベットエリアをひとりで周って帰ってきたばかり、人に伝えたい、と、強く思うことがあった私の前に、赤い表紙が目を惹くその雑誌が現れた。

詳しいやりとりはお酒のせいか時間のせいか記憶になくて、でも、書きたい、と申し出ることの気恥ずかしさを、冗談でごまかしたことは覚えている。



2009年のことだ。



言葉どおり、次の号に1ページに収まる短いエッセイを書かせてもらい、そこからの数年で、長い連載も完成させた。



その後、書くことを辞めるつもりも、アフリカから離れるつもりもないまま、筆が止まってまた数年。


そろそろ、と、ブログで助走をつけてみていたところに、

たぶん、私の一生で最も悲しいであろう出来事が、最後のひと押しをしてくれた。




今、目の前にある、変わらず切り絵が美しい表紙は、

始まったばかりの、私の新しい時間の扉のよう。




子供の頃から、書くことは私の大切な一部なのに、どういうわけか、離れたり戻ったりしていたけれど、


でも、やはり書き続けなければ、と、確信している。




読まれるか、読まれないか、

誰が読むのか、

そんなことはどうでもよくて。



書いている間、私は全ての悲しみや痛みから離れることが出来る。


それこそ、私が生きることの中に、書くことが含まれているという証拠なのだと思う。




「アフリカ」2019年7月号、

「月と車椅子」という短編に、母への想いを込めました。

他の作品も、それぞれの人生を映して興味深いものです。

読んでみようと思ってくださる方、お知らせください。

一冊500円で配布しています。


郵送も、送料込みでお受けします。








2019年4月18日木曜日

願いは桜のように

母が入院した日、お天気が良くてどんどん開いた桜






















今年もまたお花見に行こうと約束していたその日、

母がまた入院した。

89歳。

あちこち増えていく不調に隠されて、

昨年夏から繰り返している誤嚥性肺炎が、気付かないうちに重症化してしまっていた。




乗り馴れた救急車、勝手知ったる病棟。




でも、今回はこれまでとは違う。




自分が今生きていること、いつかは皆死にゆくこと。

当たり前過ぎて忘れていることを、

喉元に、刃のように、突きつけられ続ける日々を過ごしている。




20数年前、父が亡くなってから、

いつか来るその日を思わない日はなかったのではないかと思う。




それでも、

私たちの暮らしの中では、

生き死には、丁寧に、きれいに覆い隠されていて気配すらせず、




そしてある日、

手に負えない姿で目の前に現れる。




さらに、

ただ命を終えるということが、

いくつもの、医療の中の選択肢に遮られていて、




自然な死の姿がどんなものかなのかさえ見えない。




母と別れる悲しみに暮れる日を恐る恐る想像したことはあっても、




こんな、

禅問答のような、

答えに詰まる問いに戸惑う日が来るとは思っていなかった。




出来るだけ自然にシンプルに生きたい、というのが、私の常の願いなのに、




生きるどころか最期の時さえ、そうあることが難しい社会に生きているのだと思い知らされている。




母が目にすることはないまま、桜の盛りは過ぎてしまった。

時が来て、ただ桜が散るように、逝くことができればいいのにと思うけれど、

母の望み、私の願い。

それをどこに落とし込んでいけばいいのか。

右往左往しながら、答えを探る日は、まだしばらく続くよう。






2019年2月19日火曜日

まっすぐ自分を見る

畑越しに山が見えるここの景色が好き
























ヨガの練習を続けて、

できないポーズができるようになっていく、

その過程には、

身体のこと、自分自身のこと、

いろんな気づきがあって、それが私たちを成長させてくれる。




でもその成長は、

今の自分に何ができて何ができないのか、

身体も心も、

まっすぐに見つめた上でしか起きない。



そしてそれは、たぶん簡単なことじゃない。




かつて、

ダンスに明け暮れていた頃、

なんだか気持ちが塞いでしまったことがあった。




心の真ん中に、よくわからない不快な感情があって、

それが、自己嫌悪だと気づくまでに、1週間ほどかかった。




それまでの私は、

どうしたら評価されるのかといつも考えていて、

評価されるような自分ではないことに、まるで目を向けていなかった。




なんでもできているようなつもりになって、

本当は空っぽなのに、

自分を大きく見せることばかりに熱心だった。




何ができていないのか、

どうすればそれができるようになるのか、

そこに思い至らずに、

練習だけはよくするけれど、

それでは何も変わらない。




そんなことを何年も続けて、

とうとう、気がついたのだ。




私には、謙虚さがない。

一体何様のつもりだったのだろう。




何にも見えてなかった自分が恥ずかしくなって、

自己嫌悪に陥っているのに、

それが自己嫌悪であることにすら気付けなかった。




この気持ちを絶対忘れてはいけない。

決して早くはないけれど、

この先は謙虚に自分を見つめて生きよう。




そう思って、

ちょうど1月半ばだったから、

遅まきの書初めのようなつもりで、

手元にあった筆ペンで、謙虚、と書こうとしたら、

謙虚という漢字すら忘れていて、

情けなすぎて笑ったのを覚えている。




誰だって、

自分をよく思いたいし、よく見せたい。



ヨガのポーズを練習したからといって、

そんなエゴが、簡単になくなるはずもない。



でももし、変わりたいという気持ちがあるなら、

エゴをちょっと脇にどけてみないと、


リアルな自分は見えてこない。





一昨日、

ふと、また、謙虚さを忘れていた気がして、

あの時みたいに筆ペンで書いてみた。


さすがに、漢字は忘れていなかった。











2019年2月15日金曜日

自利と利他と、前回の補足

2011年暮れ、南インドのどこか。




















ひとつ前のこのブログを読んで、

私が、誰かに言ってしまったことに関して深刻に悩んでいると思った方たちから、

励ましや慰めの言葉をかけていただいた。




お気持ち、とてもありがたく、嬉しかったし、

言葉というのはいろいろに伝わるものだから、それはそれでいいのだけれど、




実際の私は、悩んで書いたわけでは全然なかった。

(ご心配いただいた方、ゴメンナサイ)



私は自称仏教徒。



先日、お勉強会に参加してきたせいか、

大乗仏教の大切な教えである、利他の行いのことが頭にあって、

このところ、自分の行動を自利か利他かといちいち考えてみていた。



一見、他者のためのように見えても、

よく観察してみれば、実は自分の為であることがほとんど。



生き物として、

最も大切なのは生き延びて子孫を残すことだろうから、

子孫以外の他者よりも、まず自分を優先するのはたぶん当たり前のことで、



だからこそ、

利他の行いは尊いのかもしれない。



そして、

その利他の心を大切にすることは、

難しいけれども、私たちを心地よくさせてくれる。



その流れで、


ふと口にして気になっていた言葉のことも、

相手のことを思って気になったのではなくて、

結局自分の評価が下がることを心配していただけと気がついて、



ああ、やっぱり仏教の教えどおり、

利他の行いは心を穏やかにするし、

自利の行いはその逆だなあと、



むしろすっきりしたのだった。





行いの表面だけを見ずに、

その奥にある動機を、

明らかにしていきたい。



それは、

少し前に書いた、

サンカルパにもつながることだなあと思う。

新年とサンカルパと残りの時間






2019年2月9日土曜日

引っかかった言葉

先日お参りした清荒神さんの滝






















誰かに言った言葉、

送ったメッセージや、SNSでしたコメント。



もう取り消せない言葉のことが後から引っかかって、



あんなこと書いてよかったのかな、とか、

他の言い方にすればよかった、とか、



ぐるぐる、ずるずる、いつまでも考え続けてることがたまにある。



ふと、

どうしてそんなに引きずるのかと、よくよく自問してみたら、



そういうときの私は、


相手がその言葉をどう受け取ったか、

相手に不快な思いをさせてしまっていないか、

と、一見相手のことを思い遣ってるようで、


実は、


そのせいで相手からの、

私自身に対する見方、評価が下がることを心配している。


つまり、考えてるのは相手のことじゃなく自分のこと。



でも、相手の気持ちは見えないから、


失礼だと思われたかもしれない、

いや、そんなこと気にしない人なんじゃないか、

いやいやでもやっぱり…などと、堂々めぐりして、終わりがない。


もし、


自分への評価じゃなく、

相手の気持ちに思いを向けていたら。



不愉快な思いをさせたていたらごめんなさい、と、謝ることも出来るし、

相手に伝えなくても、

次はこうならないように気をつけよう、と心に決めることで、

いつまでも、相手がどう思ったのかをぐるぐる考え続けなくて済む。


つまり、相手がどうかじゃなく自分がどうあるか。




今度また、ぐるぐる堂々巡りが始まったら、

あ、私、相手の気持ちじゃなく、相手からの評価を気にしてるな、

と、警戒しよう。

















2019年2月6日水曜日

食べるという選択 その1

ご近所のベジカフェめぐるさんのベジスパイスカレー























何を食べるのか、

食べないのか、

しかも、それはどんな理由でなのか。




選択はさまざま。




万人にとってこれが正解、なんて答えはないと思っている。




例えば、




ヨガなどのインドの文化に触れていると、

サットヴァな性質のものを食べるべき、

ということを耳にする。





インドで習った、

ハタヨーガ・プラディピカーにも、

食べてはいけないもの、避けるべきもの、食べていいもの、が書かれている。

でも、先生は、時代や国が違うから、必ずしも書かれている通りにしようとしなくていい、

という意味のことをおっしゃっていた。




特に気候や環境の影響は避けられない。




私にとって1番身近な例はチベット人の夫で、

伝統的に、厳しい気候の地域で、肉や乳製品をメインに摂ってきた彼らに、

菜食を勧めるは無理があると感じる。







私はというと、




今は、お肉もお魚も卵も乳製品も、

基本は食べない。




そうなったのにもいろいろな理由があり、

(それはまた別の機会に)

この先もずっとそうかどうか、もわからない。

(たぶんお肉を食べることはないと思うけれど)

人に強いる気もさらさらない。




ただ、



漠然と、

スーパーやレストランにオススメされるまま、

流されて口に入れるのではなくて、

(自分で選んでいるつもりが選ばされている、ということが多々あると思う)

納得して本当に自分で選んだものを食べたい。





とは言え、

お釈迦様は選択すらされなかったんだけれども。










2019年2月5日火曜日

新年とサンカルパと残りの時間

ラサのチベット寺院のバターで作った飾りもの
























昨日は立春。

今日は旧暦のお正月。

それから、旧暦とはちょっと違うのだけれど、

今年はチベット暦でも今日が元旦、ロサル。




節目になるこの時期に、

練習中感じたこともあって、

剥がれ落ちた朝



改めて、

どうありたいのか、を、丁寧に見定めるのって大事だなと思う。




そうでないと、

自分の思う方に進んでいるつもり、で、

実は、本当に望んでいることとは無関係だったり、

むしろ真逆だったりするような、

どうでもいいことに、

つい時間を費やしてしまう。




まあ、人ってそんなもの。




なんだろうけれど、

そんなこと言ってると、あっという間に今生が終了してしまうので、

くだらない、と後で思うようなことはもうできるだけしたくない。




ちょうどこの前のサンスクリット語の勉強会で、

サンカルパのことが話題になった。




サンカルパというのは、何か行為をするときに、

どんな目的のために、何をするのか、言葉にしてはっきりさせることだそう。




どこに行きたいのかがはっきりすれば、何に乗ってどう行けばいいのかわかる。




すごくシンプルなことなのに、今までしてこなかった。




これからは、ひとつひとつ、サンカルパして、即行動、かな。




どれだけあるか知らないけれど、

貴重な残りの時間、無駄にせず使いきれますように。





2019年2月4日月曜日

剥がれ落ちた朝

南インド、おじさんのコーヒー園に向かう道
























朝の練習中、



くだらない!

と、突然、声がした。

それは、私自身の声だった。




何してんのん?

何したいのん?

ポーズがたくさん出来たらええのん?

そんなことが目標やったん?




突風みたいに、次々問いが溢れ出て、

こちらの私は、

ちょっとびっくりしながら、ただその問いを見つめる。




そうやんなあ、

そんなことじゃなかったやんなあ、うんうん。




ちょっとお怒りの私の声、

でも、全てが腑に落ちて、

こちらの私は両手を上げて降参。





出来ないことに焦ったり、人と比べたり、

出来不出来にこだわって、落ち着かない自分。




そんな気持ちがいっぱいあるのに、

まるで何も気にしてないフリで練習してる自分。




くっだらないなあ。

と、思った。

とことん、くだらないと思えて、清々しかった。





時折、こんな風に、やってくる、

何かが、剥がれ落ちる瞬間。




ちょっと痛いときもあるけれど、心地よい。

どんどん剥がれ落ちて、身軽になればいい。



2019年2月2日土曜日

学ぶ、幸せ。

文字を見ると、とりあえず読もうとする
























今日は朝から、

少しお久しぶりのサンスクリットのお勉強会。




参加出来なかった先月、

自分で本を開くことも、

しなかったり、

出来なかったりで、




ちょっと不安も感じながら、

でもやっぱり、わくわくしながら向かう。




お馴染みになった顔触れ。

それだけで落ち着く。




始まれば、

目も耳も手も頭も、いっぱいいっぱい。




脳みそが熱くなって、

うわあ、もうこれ以上無理、

と、何度か思う。




でもまた、

知りたいことに

気持ちが向かっていく。




インドで習い始めてから、

少しずつ、かじり続けてみてはいても、

先は見えない、

全体も見えない。




こういうとき、

これをして、どうなるんだろう?

何の役に立つんだろう?




以前の私は

そんなことばかり考えていたけれど。







精いっぱい、夢中で過ごす幸せな時間、




場を作ってくれる人がいて、

教えてくれる人がいて、

一緒に学ぶ人がいて、

そこにいられる自分がいる。







もうそれで、充分。

それ以上、何もいらない。







2019年2月1日金曜日

からだ、カラダ、身体























自分自身積み重ねてきた練習の中で理解したり発見したりして、

確信を得られたこと。

それから、

これまでの練習仲間や生徒さんたちを観察してきてわかったこと。




ヨガのクラスで伝えることは、

全て、

直接的、或いは間接的な、私の経験ベース。




外から得た知識のみで、

自分自身で確信出来ていないこと、は伝えない。

右から左へ知識を受け渡すだけなら、私はいらないと思うから、

何となくそれを信条にしている。




でも、

経験ベースだと、なかなか出会えないこと、

出会えないけれど知っておきたいことは、

確信を持って教えてくれる先生に学びに行く。







月に1度参加する解剖学のクラス。




1番の目的は、

自分とは違うタイプの身体について知ること、

それから、自分の身体についても、より深く知ること。




学ぶ中で、

経験的に確信していたことが、解剖学の説明と一致すると、

心の中で小躍りしている。



昨日もまた1つ、2つ、と、そんなことがあって、

特に大切だと思っていたことだったから、私の中はお祭り騒ぎ。




興奮気味に家に帰って、

今朝からは、

それらを反芻しつつ、還元しつつ、練習するのがまた楽しい。







いずれ思うように動かなくなり、

最後には消え去る身体。




でも、これ無しでは何も体験できない、大切な乗り物でもある。




私が人のお役に立てることはこれくらいなので、

自分の身体で日々実験しながら、

周りの人が、少しでも長く快適に過ごせるように、

乗り心地よく手入れするお手伝いができればと思う。
















昨日は、まき先生の、解剖学のクラスでした。

本で学べる単なる知識、ではなく、

それを丁寧にご自身の身体に落とし込み、

さらに多くの身体を見てこられた経験を通して生まれた知恵を、

惜しまずシェアしてくださる、有り難い先生です。

次回が今から楽しみ。











2019年1月31日木曜日

変わりゆく、すべて
























仏教は、

この世には3つの苦しみがあって

その1つが、

変化の苦しみだと教える




私たちは、

良き変容をしたいと望みながら

なかなかそれを得られない




けれど、

望まない変化は、日々やってくる




ひとつ、またひとつ

昨日出来たことが、出来なくなっていく母




本人は、どこまでその変化に気づいているのだろう




わかることが、苦しみになるなら

わからずにいてくれた方がいいのか




側にいる私は、




話が噛み合わず、途方に暮れる

堂々巡りに苛立ち、苛立つ自分にさらに苛立つ




ちょっと心を鎮めて

笑顔で話せる日もあれば、




向き合うことすら難しい日も多い





先のことを考えず

何も望まず




心を平らに保って役目を果たせたなら、

良き変容にも繋がるはず、と、




自分に言い聞かせたり、

聞かせられなかったり




これもヨガ

これこそプラクティス




2019年1月30日水曜日

目的地を決めずに
























まだ時々、

本当に書きたいことじゃないことを書こうとしている。


書くこと、生きること




なんとなく、目的地を目指して、

そこに行き着こうとしている。




でも、

思いつく範囲の目的地なんてつまらない。




もっともっともっともっと、

自由になって、




思いがけない場所にたどり着きたい。





2019年1月29日火曜日

根っこの繋がり


5年ほど前、居心地のいい人たちと歩いた山の中。






















少し前まで、




私にさして興味はないのだけれど、

お付き合いしてくれていた人たちが結構いて、

でも、そういうのって不自然だから、

一緒にいると、しばしば腑に落ちない気持ちになることがあった。




でも、




いくつかのものを手離して生活が変わったら、

そういう人は、いなくなった。




私にくっ付いているように見えたもの、が、そうさせているのは知っていて、

でもそれは私じゃないんだけどなあ、と、ずっと思っていたので、

すっきりした。




寂しくなったわけでもなくて、




何もくっ付いていない小さな私、を、見てくれる、

愉快な人たちが周りに増えた。





根っこの方にあるエネルギーを感じて、お互い引き合う。

そんな人たちと、

もっと繋がっていきたい。





2019年1月28日月曜日

ヨガの先輩たち

桜。冬空の下、ひっそり準備中。
























時折クラスに現れる

ヨガの先輩たち




身体が柔らかいわけではなく

難しいポーズをさっと決められるわけでもない




むしろ、




全然曲がらなかったり、力が無かったり




でも、彼らは先輩だとすぐにわかる




年配の人であることもあれば

その逆もあって




プラクティスは、

今生だけではないのだと教えられる




丁寧に聞き

丁寧に動く




出来たことは、ただ出来たこととして

出来ないことは、ただ出来ないこととして

それ以上でもそれ以下でもなく




淡々と

自分を見つめる、

彼らのまとう気が、

周りの空間さえ鎮めていく




私に伝えられるのは、

身体のことだけ




その先は、

彼らの方が知っている








2019年1月27日日曜日

神さまとの時間

生田の森の楠
























手を合わせた途端始まった祝詞

顔を上げると、

社殿から澄んだ風が流れてくる







左手に回ると、

池の端に市杵島姫さま

小さなお社から伝わってくるもの







そして、

社殿の背後の、木々の影の中へ




それは、

幾本かの大きな楠に守られて、

清らかな空気を湛え続ける、鎮守の森




見上げた先から降り下りてくる光が、

足元のせせらぎをきらめかせる




その中でいつも楽しげに遊ぶ鳩たちと一緒に、

私も木漏れ日を踏んでゆっくりと歩く







ふと顔を上げると、

連なった朱色の鳥居の先、

お稲荷さんと目が合う




これまでご挨拶したことがないのに、

呼んでもらった気がして階段を上がる




初めまして、と頭を下げる

かららん、かららんと朗らかに響く鈴







また来ます、

そう、お稲荷さんに、

それから全ての神さまに伝えて、

鳥居を出る




何かを引き受けて、

何かを下さった、

そう感じる、

神さまとの時間。






今日は、神戸、大倉山安養寺さんでの、
月1回のヨガの日でした。
次回は2月24日です。

詳細 お寺でヨガしませんか?























2019年1月26日土曜日

書くこと、生きること

























元々書くことが好きだから、

思い立ってブログを毎日更新してみていたら、

だんだん気持ち悪くなってきた。




何故だろうと思っていたら、

昨日答えが見つかった。




読まれることを意識して書いているブログ。




以前の私は、




ただ自分の思いと、

言葉とが、

出来る限り近づくように、




それだけを考えて書いていた。




そうして紡いだ言葉が、

私を不快にさせることなんてあり得なかった。




私にとっての書くこととはどういうことなのか。




そしてそれは、




書くことについてだけではなく、

全てのことの答えでもある。

そのことに気づけて、

今とても気分が良い。




この答えと一緒に、

今年は書いていこう。



生きていこう。




2019年1月25日金曜日

私が考えていることは本当に私が考えたことなのか

自由なようで自由じゃないことを知っていたい





















昨日、
ホラー映画で爆笑して何が悪い

と書いたのだけれど、



例えばある映画を見て、とても感動したとして、

100%、自分の感覚でそう感じたと言えるかといえば、実はなかなか難しいと思う。



センスがいいと思っている友達が絶賛していたとか、

芸能人がこぞって褒め称えていたとか、

そんな情報で、感動センサーが敏感になっていたかもしれない。

もっと言えば、

主人公の行動が、私たちの社会では好ましいと思われているものだったから感動できたのであって、

全く違う価値観の社会にいれば、感動どころか不快に感じたかもしれない。




私たちの行動や思考は、

生きてきた社会、今生きている社会から、全く自由じゃない。



生まれ持った性質だと思っていることですら、

その社会で育つうちに身につけたものであったりする。




そこから完全に自由になることはありえないのだけれど、

何にどう縛られているのかに気づいていたい、

そして、縛られなくて済むものからは離れていたい。




知らないうちに何かわからないものに絡め取られて生きるのは嫌だと思う。




明日は心待ちにしているチベット仏教の勉強会。
場所はいつもヨガのクラスをさせていただいている安養寺さん。

自分の生活に取り入れられることが学べたらいいな。





2019年1月24日木曜日

ホラー映画で爆笑して何が悪い

これはホラー映画じゃないよ























カットに行ってきたのだけれど、2時間半近く時間がかかった。

なぜなら、美容師さんと話が盛り上がりすぎて、

何度も爆笑していたからだった。



毎回、私が興味を持ちそうな話題を振ってくれて、

調子に乗って私が話す、あまり一般的ではないような、

マニアックな話も興味を持って聞いてくれるので、

あっという間に時間が過ぎる。



もちろん、

お客さんである私に合わせてくれているとは思うけれど、

どうも、物事をちょっと違う角度から見てみる、

という共通の癖があるらしい。



多くの人が感動して泣いたという映画で、

全く感動ポイントが分からず、

自分はどこかおかしいのだろうかとさえ思った、

という美容師さんの話がそもそもの始まり。




実は私もしばしばそういうことがあって、

周りと違う、あるいは、製作者の意図と全然違う反応をしてしまったときのことをお互いいろいろ思い出した。




ホラー映画の、みんながきゃーっと叫んで怖がるところで、ちっとも恐くなくて、むしろとても滑稽に見えて爆笑してしまう。

恋愛映画のクライマックスで、ありえない設定がやはり滑稽に見えて笑ってしまう。

感動モノの映画も、いかにも過ぎる演出にうんざりして冷めてしまう。




美容師さんが昔映画館で見たホラー映画で大笑いした話をしてくれて、

私にもその内容はコントのようにしか聞こえず、

大声で笑ってしまったのだった。




こうして書いていてわかってきたのだけれど、

つまり、こう感じなさい、と、押し付けられることに違和感を覚えてしまうのだと思う。




美容師さんが最後の方で、

これって結局KYってことですかね?

と言ったけれど、




そんなところで空気読まなくていいと思うのだ。

何をどう感じるかなんて人それぞれなのに、

周りと同じ反応をしなきゃ、なんて必要ない。

作り手の指示どうりの感想を持たなきゃいけない理由もない。




映画に限らず、

ちょっと面倒臭いけど、

従順すぎないものの見方、私は大事だと思ってる。





とはいえ、

あまりの大声で周りの人の感動を妨げないようには気をつけようと思うけれど、

ちょっとずれたところで、ずれた反応をしていても、

暖かく見守ってください。





2019年1月23日水曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 その2

青空に向かって深呼吸!























すべての人にヨガをオススメしたい理由 その1 はこちら



身体能力を維持するためだけなら、筋トレをして柔軟体操をすればいいのかもしれない。

でも、私は絶対ヨガをオススメしたい。



その1番の理由が、呼吸。



筋トレや柔軟体操でも、呼吸を指導されることはあると思うけれど、

良い呼吸をするために、この筋トレをしましょう!柔軟性な身体を作りましょう!

ということではないはず。



ヨガは違う。

まず呼吸ありき、なのだ。



ヨガと言えば、いろいろなポーズをとるものというイメージがあるだろう。

ただ、そのポーズを形だけ真似しても、そのポーズは完成しない。

そのポーズをとりながら、かつ、深くスムーズな呼吸が出来て初めて完成したと見なされる。


呼吸抜きのヨガはありえない。



生きる、とは、息をすること。

呼吸が止まることは、命の終わり。



その呼吸の質を高めることは、命の質を高めることに繋がるのだと思う。

そしてそれが出来るのがヨガだということ。




ただ吸って吐くだけなら誰だって出来る、いや、しているはず。

でも、どんな風に?

無意識にしているだけに、自分がどんな呼吸をしているか、みんな知らない。




心肺機能を高めるだけなら、やはり他の運動でも構わない。

実際、どんなスポーツでも身体を使うことでも、レベルの高いプレイヤーほど、呼吸をコントロール出来ているのだろうと思う。



でも、より繊細に、より深く、呼吸を見つめてその質を高めることが出来るのがヨガ。

なぜなら、それこそがヨガの目的だからだ。





私は、ヨガを始める前、長くダンスをしていたのだけれど、ヨガほどではないにせよ、呼吸について注意を受けることがあった。

おかげで呼吸に意識を向けるようになったものの、その結果気づいたのは、日常の自分の呼吸が、浅くて、すぐ途切れて、全くスムーズではないということだった。

ダンスで激しく動いていたので、心肺機能は高められていたはずで、でも、どんなときにも安定した呼吸が出来るかと言えば、そうではなかった。



今の私は、その頃よりかなり年齢が上がっているから、激しいスポーツなどでは疲れやすくなっているかもしれない。

でも、日常動作では圧倒的に、今の方が疲れない。

それは、ヨガのおかげで、平常時の呼吸が深くなったからだと確信している。



そして、

呼吸の質が上がると、

疲れにくくなるだけにとどまらないいいことが、他にもいっぱいある。



それについては、長くなるのでまた次に。




クラスのお知らせです。


月1回、神戸の安養寺さんで開催している朝のヨガクラス、

今週末、1月27日です。

阪神大震災で全壊、その後寄付を集めて数年前に再建された、

歴史はあるけど新しいお寺です。

伝統的な手法を守って建てられた本堂は、

木の香りが漂う素晴らしい空間。

暖房も完備されていますので、安心してご参加ください。

詳細 お寺でヨガしませんか?




2019年1月22日火曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 たぶんその1

梅。凛々しい、という言葉がよく似合う。























来月89歳になる母の介護をしている。




身体に意識的に動かすことをしてこないと、こうなってしまうのか、ということを、目の当たりにしている。




私が身体を動かすことに関わり続けるのは、もちろん自分が好きだからでもあるけれど、この母を反面教師にしている部分も大いにある。



母は、生涯通して、一切のスポーツ、運動といったことをしたことがない。学生時代は戦争中で、そのあとは親の借金を背負って働き詰めだったので、その頃にそんなことは出来なくて当然だとは思う。


私を子育て中に、膝だか腰だかに不調を感じて、歩かねば、と思い、数年間、新聞集金のパートに出たところまでは良かった。(母は自転車に乗れないので、徒歩で集金に回っていた)


しかし、その後は、月数回、山のお寺にお参りに行くくらいで、歩く以外のことは何もして来なかった。




身体能力は、使っていれば維持、向上も出来るけれど、使わずに放っておくと退化する。さらに、使っていても、加齢で徐々に落ちていく。




ただ、高齢の人でも、定期的に動かせば、ある程度筋力もつくし、柔軟性も上がる。




問題は、

生まれてこのかた身体を意識して動かしてこなかった人は、

脳と身体の連携が良くなくて、

筋力、柔軟性の問題以前に、

思ったように身体を動かせない。

脳の命令が、うまく身体に伝わらない、回路が、途切れているのだと思う。




若い頃、スポーツなどで1度でもこの回路を繋げたことのある人は、

ブランクがあっても、比較的早く回路が復活する。




ブランクなく、継続して身体を動かしている人は、この回路がしっかり繋がっているから、年齢が上がって新しいことにチャレンジしても結構出来たりする。



けれど、

この回路を、高齢になって初めて繋ぐのは、とても難しいし、何をやってもうまく出来なくて、運動を継続しにくくもなる。



(これらのことは全部、ダンスやヨガを長く続けてきた自分自身の経験を通して、

或いは周りの人や生徒さんたちを見てきて、

或いは母を観察してきて、いつしか考えるようになったことだけれど、概ね間違えてはいないと思う。

私は運動生理学などを学んだことがないから、もしかしたらとても基本的なことなのかもしれない。

そちらの観点からの知識がある方、良ければ是非教えてください。)



何にしてもとにかく、


あまり身体を動かしてこなくて、この回路が繋がっていない人は、出来るだけ早く繋げることをした方がいいし、


ある程度繋がっている人は、途切れないように使い続けた方がいい。



気、プラーナ、などと言われるエネルギーのことを書いたけれど、

私が思う気の話 土地編
私が思う気の話 人編


そのようなことに興味がなくても、

身体能力を出来るだけ維持することは考えた方がいい。

年齢が上がると、その低下が更にいろいろな問題に繋がっていく。




そして、そのためにも、ヨガは特にオススメ。


身体をくまなく使って全身の筋力、柔軟性をともに高められ、

さらに呼吸を意識して動くことで、大切な呼吸器の機能も高められる。


ただし、


三日坊主や、数カ月に1回のイベント的参加では、効果は得られないので悪しからず。






2019年1月21日月曜日

私が思う気の話 人編




2005年、チベット、ラサの巡礼者たち


















人の持つ気。

これは、土地と違ってちょっと厄介。


私が思う気の話 土地編



きっと、身体中を、エネルギーが気持ち良く巡っていれば、いい気を放っているのだろうし、


良くない気を発している時は、

何事かでその流れが妨げられ、滞っているのだろう。




土地の気よりずっと短いスパンで、上がったり下がったり。




そして、

そんな気を、知らず知らす私たちは外に放っていて、

お互いに、与えたり受け取ったりしている。







チベットの偉いお坊さんに、何度か間近でご挨拶させていただいたことがあるけれど、




毎回、ただ足元に座らせていただくだけで、

パワフルな聖地に足を踏み入れたいるかのように、

安心感と幸福感、肯定感に全身が包まれる。




どれほどのいい気が巡り、外に放たれているんだろう。




人が、このような存在になり得るということが、驚きでもあり、希望にもなるのだけれど。




比べるのもおこがましいとは言え、

かたや私は、

残念ながら、

マイナスの気をしばしば、たぶんかなりしばしば放っている。(周りのみなさんゴメンナサイ)




ただ、自覚があるときには、

その気を外に向けないように意識することを最近覚えて、これは結構有効なように感じている。




でも、いつもそんな風に冷静に対処出来ないからやっぱり厄介。







でも、だからヨガが必要なんだよね。










そんな、気を整えるヨガの話をこれから書いていこうと思います。


2019年1月20日日曜日

私が思う気の話 土地編

チベット、ラサのポタラ宮


















気、とか、プラーナ、とか、

呼び方はなんでもいいけれど、

何かしらエネルギーの流れを私たちはみんな持っていて、

それは、他の生き物も、木や石や土地も同じで、

お互いにそれを感じたり与えたり受け取ったりしている。




見えないものは信じないという人もいるだろうから、

何を根拠に、と言われるかもしれないけれど、

確かにそんなエネルギーを感じている人は、私に限らずたくさんいて、




今外で鳴いているネコがそこにいるように、

今手に持っているコーヒーカップがここにあるように、



確かに感じるのだから、あるものはある、としか言えない。




昨日、お参りの話を書いたけれど、

お寺や神社は、

そんなエネルギーの流れの良い場所に建っているから、

信仰心がなくても、そこへ行くことで元気になれる。

あるいは、その元気にしてくれるチカラこそが、神様だとも言える。




私が知っている中で1番パワフルな場所はチベットのラサだ。

そこにいるだけで、身体にエネルギーが溢れて、気分が高揚する。

元々の大きな土地のエネルギーに、多くの人々が惹きつけられて巡礼にやってくる、その祈りのパワーが積み重なって、さらにエネルギーを強くする。

聖地とは、そういう場所なのだと思う。




ラサにはなかなか行けそうにないけれど、




お気に入りのお寺や神社に行っては、良い気をいただいてくる。

自然の中にある、大きな木や石に触れてチカラをもらう。

自力では整えきれない自分のエネルギーを、そういうところで助けてもらって整えている。



次は氣の話、人編





2019年1月19日土曜日

お参りは愉しい

奈良県生駒市、宝山寺大黒堂前からの眺め。






月に1度、家族3人揃ってお参りするのが決まりだった。





日曜の朝、突然、母が今日はお参りに行くと宣言すると、のんびり休日を過ごすつもりだったはずの父も絶対逆らえず、必ず行くしかないのだった。





正直、楽しいお出かけではなかった。





寒くても暑くても、山の中腹に点々とあるお堂にお線香とお賽銭を備え、手を合わせながら、奥の院の先にある大黒堂まで登る。最後はお堂の周りを100回周るお百度を踏んで、ようやく帰路。

特に冬場は、今よりもっと寒かったから、手先足先が凍えて、本当に辛かった。





行き帰りに楽しい寄り道があるということもなく、特にお正月のお参りの時など、どちらかと言えば参道の屋台がメインらしい家族連れなどを、恨めしく眺めていた。






いつの頃からか、私は1人でお参りするようになり、父も他界して、それからもずいぶんと時間が経った。家族揃ってのお参りだけでなく、月に3回は通い、お堂のお手伝いまでしていた母も、自力で行けなくなって久しい。






私だけが、あの気乗りしなかった月1回のお参りを、誰に強制されるわけでもないのに、律儀に続けている。






それも、嬉々として。






今なら、なぜ母が月3度も通ったのかがよくわかる。






今日は久しぶりに大黒堂でお百度を踏んだ。


真言を唱えながら100回周る間、もう昔のように、早く終わればいいのに、とは思わない。






身体中の無駄な力が抜けて、お線香の香りが深く染み込んでいくのを味わいながら、大きなチカラに包まれる安心感の中で過ごす時間。


終われば何もかもニュートラルに戻っていて、ああまた来よう、そう思いながら山を下りる。






疲れたら、ただそこに行けばいい。


そんな場所を持てていることのありがたさを噛みしめ、そのご縁をくれた母にも、感謝を感じながら。