母が入院した日、お天気が良くてどんどん開いた桜 |
今年もまたお花見に行こうと約束していたその日、
母がまた入院した。
89歳。
あちこち増えていく不調に隠されて、
昨年夏から繰り返している誤嚥性肺炎が、気付かないうちに重症化してしまっていた。
乗り馴れた救急車、勝手知ったる病棟。
でも、今回はこれまでとは違う。
自分が今生きていること、いつかは皆死にゆくこと。
当たり前過ぎて忘れていることを、
喉元に、刃のように、突きつけられ続ける日々を過ごしている。
20数年前、父が亡くなってから、
いつか来るその日を思わない日はなかったのではないかと思う。
それでも、
私たちの暮らしの中では、
生き死には、丁寧に、きれいに覆い隠されていて気配すらせず、
そしてある日、
手に負えない姿で目の前に現れる。
さらに、
ただ命を終えるということが、
いくつもの、医療の中の選択肢に遮られていて、
自然な死の姿がどんなものかなのかさえ見えない。
母と別れる悲しみに暮れる日を恐る恐る想像したことはあっても、
こんな、
禅問答のような、
答えに詰まる問いに戸惑う日が来るとは思っていなかった。
出来るだけ自然にシンプルに生きたい、というのが、私の常の願いなのに、
生きるどころか最期の時さえ、そうあることが難しい社会に生きているのだと思い知らされている。
母が目にすることはないまま、桜の盛りは過ぎてしまった。
母がまた入院した。
89歳。
あちこち増えていく不調に隠されて、
昨年夏から繰り返している誤嚥性肺炎が、気付かないうちに重症化してしまっていた。
乗り馴れた救急車、勝手知ったる病棟。
でも、今回はこれまでとは違う。
自分が今生きていること、いつかは皆死にゆくこと。
当たり前過ぎて忘れていることを、
喉元に、刃のように、突きつけられ続ける日々を過ごしている。
20数年前、父が亡くなってから、
いつか来るその日を思わない日はなかったのではないかと思う。
それでも、
私たちの暮らしの中では、
生き死には、丁寧に、きれいに覆い隠されていて気配すらせず、
そしてある日、
手に負えない姿で目の前に現れる。
さらに、
ただ命を終えるということが、
いくつもの、医療の中の選択肢に遮られていて、
自然な死の姿がどんなものかなのかさえ見えない。
母と別れる悲しみに暮れる日を恐る恐る想像したことはあっても、
こんな、
禅問答のような、
答えに詰まる問いに戸惑う日が来るとは思っていなかった。
出来るだけ自然にシンプルに生きたい、というのが、私の常の願いなのに、
生きるどころか最期の時さえ、そうあることが難しい社会に生きているのだと思い知らされている。
母が目にすることはないまま、桜の盛りは過ぎてしまった。
時が来て、ただ桜が散るように、逝くことができればいいのにと思うけれど、
母の望み、私の願い。
それをどこに落とし込んでいけばいいのか。
右往左往しながら、答えを探る日は、まだしばらく続くよう。
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