2019年2月19日火曜日

まっすぐ自分を見る

畑越しに山が見えるここの景色が好き
























ヨガの練習を続けて、

できないポーズができるようになっていく、

その過程には、

身体のこと、自分自身のこと、

いろんな気づきがあって、それが私たちを成長させてくれる。




でもその成長は、

今の自分に何ができて何ができないのか、

身体も心も、

まっすぐに見つめた上でしか起きない。



そしてそれは、たぶん簡単なことじゃない。




かつて、

ダンスに明け暮れていた頃、

なんだか気持ちが塞いでしまったことがあった。




心の真ん中に、よくわからない不快な感情があって、

それが、自己嫌悪だと気づくまでに、1週間ほどかかった。




それまでの私は、

どうしたら評価されるのかといつも考えていて、

評価されるような自分ではないことに、まるで目を向けていなかった。




なんでもできているようなつもりになって、

本当は空っぽなのに、

自分を大きく見せることばかりに熱心だった。




何ができていないのか、

どうすればそれができるようになるのか、

そこに思い至らずに、

練習だけはよくするけれど、

それでは何も変わらない。




そんなことを何年も続けて、

とうとう、気がついたのだ。




私には、謙虚さがない。

一体何様のつもりだったのだろう。




何にも見えてなかった自分が恥ずかしくなって、

自己嫌悪に陥っているのに、

それが自己嫌悪であることにすら気付けなかった。




この気持ちを絶対忘れてはいけない。

決して早くはないけれど、

この先は謙虚に自分を見つめて生きよう。




そう思って、

ちょうど1月半ばだったから、

遅まきの書初めのようなつもりで、

手元にあった筆ペンで、謙虚、と書こうとしたら、

謙虚という漢字すら忘れていて、

情けなすぎて笑ったのを覚えている。




誰だって、

自分をよく思いたいし、よく見せたい。



ヨガのポーズを練習したからといって、

そんなエゴが、簡単になくなるはずもない。



でももし、変わりたいという気持ちがあるなら、

エゴをちょっと脇にどけてみないと、


リアルな自分は見えてこない。





一昨日、

ふと、また、謙虚さを忘れていた気がして、

あの時みたいに筆ペンで書いてみた。


さすがに、漢字は忘れていなかった。











2019年2月15日金曜日

自利と利他と、前回の補足

2011年暮れ、南インドのどこか。




















ひとつ前のこのブログを読んで、

私が、誰かに言ってしまったことに関して深刻に悩んでいると思った方たちから、

励ましや慰めの言葉をかけていただいた。




お気持ち、とてもありがたく、嬉しかったし、

言葉というのはいろいろに伝わるものだから、それはそれでいいのだけれど、




実際の私は、悩んで書いたわけでは全然なかった。

(ご心配いただいた方、ゴメンナサイ)



私は自称仏教徒。



先日、お勉強会に参加してきたせいか、

大乗仏教の大切な教えである、利他の行いのことが頭にあって、

このところ、自分の行動を自利か利他かといちいち考えてみていた。



一見、他者のためのように見えても、

よく観察してみれば、実は自分の為であることがほとんど。



生き物として、

最も大切なのは生き延びて子孫を残すことだろうから、

子孫以外の他者よりも、まず自分を優先するのはたぶん当たり前のことで、



だからこそ、

利他の行いは尊いのかもしれない。



そして、

その利他の心を大切にすることは、

難しいけれども、私たちを心地よくさせてくれる。



その流れで、


ふと口にして気になっていた言葉のことも、

相手のことを思って気になったのではなくて、

結局自分の評価が下がることを心配していただけと気がついて、



ああ、やっぱり仏教の教えどおり、

利他の行いは心を穏やかにするし、

自利の行いはその逆だなあと、



むしろすっきりしたのだった。





行いの表面だけを見ずに、

その奥にある動機を、

明らかにしていきたい。



それは、

少し前に書いた、

サンカルパにもつながることだなあと思う。

新年とサンカルパと残りの時間






2019年2月9日土曜日

引っかかった言葉

先日お参りした清荒神さんの滝






















誰かに言った言葉、

送ったメッセージや、SNSでしたコメント。



もう取り消せない言葉のことが後から引っかかって、



あんなこと書いてよかったのかな、とか、

他の言い方にすればよかった、とか、



ぐるぐる、ずるずる、いつまでも考え続けてることがたまにある。



ふと、

どうしてそんなに引きずるのかと、よくよく自問してみたら、



そういうときの私は、


相手がその言葉をどう受け取ったか、

相手に不快な思いをさせてしまっていないか、

と、一見相手のことを思い遣ってるようで、


実は、


そのせいで相手からの、

私自身に対する見方、評価が下がることを心配している。


つまり、考えてるのは相手のことじゃなく自分のこと。



でも、相手の気持ちは見えないから、


失礼だと思われたかもしれない、

いや、そんなこと気にしない人なんじゃないか、

いやいやでもやっぱり…などと、堂々めぐりして、終わりがない。


もし、


自分への評価じゃなく、

相手の気持ちに思いを向けていたら。



不愉快な思いをさせたていたらごめんなさい、と、謝ることも出来るし、

相手に伝えなくても、

次はこうならないように気をつけよう、と心に決めることで、

いつまでも、相手がどう思ったのかをぐるぐる考え続けなくて済む。


つまり、相手がどうかじゃなく自分がどうあるか。




今度また、ぐるぐる堂々巡りが始まったら、

あ、私、相手の気持ちじゃなく、相手からの評価を気にしてるな、

と、警戒しよう。

















2019年2月6日水曜日

食べるという選択 その1

ご近所のベジカフェめぐるさんのベジスパイスカレー























何を食べるのか、

食べないのか、

しかも、それはどんな理由でなのか。




選択はさまざま。




万人にとってこれが正解、なんて答えはないと思っている。




例えば、




ヨガなどのインドの文化に触れていると、

サットヴァな性質のものを食べるべき、

ということを耳にする。





インドで習った、

ハタヨーガ・プラディピカーにも、

食べてはいけないもの、避けるべきもの、食べていいもの、が書かれている。

でも、先生は、時代や国が違うから、必ずしも書かれている通りにしようとしなくていい、

という意味のことをおっしゃっていた。




特に気候や環境の影響は避けられない。




私にとって1番身近な例はチベット人の夫で、

伝統的に、厳しい気候の地域で、肉や乳製品をメインに摂ってきた彼らに、

菜食を勧めるは無理があると感じる。







私はというと、




今は、お肉もお魚も卵も乳製品も、

基本は食べない。




そうなったのにもいろいろな理由があり、

(それはまた別の機会に)

この先もずっとそうかどうか、もわからない。

(たぶんお肉を食べることはないと思うけれど)

人に強いる気もさらさらない。




ただ、



漠然と、

スーパーやレストランにオススメされるまま、

流されて口に入れるのではなくて、

(自分で選んでいるつもりが選ばされている、ということが多々あると思う)

納得して本当に自分で選んだものを食べたい。





とは言え、

お釈迦様は選択すらされなかったんだけれども。










2019年2月5日火曜日

新年とサンカルパと残りの時間

ラサのチベット寺院のバターで作った飾りもの
























昨日は立春。

今日は旧暦のお正月。

それから、旧暦とはちょっと違うのだけれど、

今年はチベット暦でも今日が元旦、ロサル。




節目になるこの時期に、

練習中感じたこともあって、

剥がれ落ちた朝



改めて、

どうありたいのか、を、丁寧に見定めるのって大事だなと思う。




そうでないと、

自分の思う方に進んでいるつもり、で、

実は、本当に望んでいることとは無関係だったり、

むしろ真逆だったりするような、

どうでもいいことに、

つい時間を費やしてしまう。




まあ、人ってそんなもの。




なんだろうけれど、

そんなこと言ってると、あっという間に今生が終了してしまうので、

くだらない、と後で思うようなことはもうできるだけしたくない。




ちょうどこの前のサンスクリット語の勉強会で、

サンカルパのことが話題になった。




サンカルパというのは、何か行為をするときに、

どんな目的のために、何をするのか、言葉にしてはっきりさせることだそう。




どこに行きたいのかがはっきりすれば、何に乗ってどう行けばいいのかわかる。




すごくシンプルなことなのに、今までしてこなかった。




これからは、ひとつひとつ、サンカルパして、即行動、かな。




どれだけあるか知らないけれど、

貴重な残りの時間、無駄にせず使いきれますように。





2019年2月4日月曜日

剥がれ落ちた朝

南インド、おじさんのコーヒー園に向かう道
























朝の練習中、



くだらない!

と、突然、声がした。

それは、私自身の声だった。




何してんのん?

何したいのん?

ポーズがたくさん出来たらええのん?

そんなことが目標やったん?




突風みたいに、次々問いが溢れ出て、

こちらの私は、

ちょっとびっくりしながら、ただその問いを見つめる。




そうやんなあ、

そんなことじゃなかったやんなあ、うんうん。




ちょっとお怒りの私の声、

でも、全てが腑に落ちて、

こちらの私は両手を上げて降参。





出来ないことに焦ったり、人と比べたり、

出来不出来にこだわって、落ち着かない自分。




そんな気持ちがいっぱいあるのに、

まるで何も気にしてないフリで練習してる自分。




くっだらないなあ。

と、思った。

とことん、くだらないと思えて、清々しかった。





時折、こんな風に、やってくる、

何かが、剥がれ落ちる瞬間。




ちょっと痛いときもあるけれど、心地よい。

どんどん剥がれ落ちて、身軽になればいい。



2019年2月2日土曜日

学ぶ、幸せ。

文字を見ると、とりあえず読もうとする
























今日は朝から、

少しお久しぶりのサンスクリットのお勉強会。




参加出来なかった先月、

自分で本を開くことも、

しなかったり、

出来なかったりで、




ちょっと不安も感じながら、

でもやっぱり、わくわくしながら向かう。




お馴染みになった顔触れ。

それだけで落ち着く。




始まれば、

目も耳も手も頭も、いっぱいいっぱい。




脳みそが熱くなって、

うわあ、もうこれ以上無理、

と、何度か思う。




でもまた、

知りたいことに

気持ちが向かっていく。




インドで習い始めてから、

少しずつ、かじり続けてみてはいても、

先は見えない、

全体も見えない。




こういうとき、

これをして、どうなるんだろう?

何の役に立つんだろう?




以前の私は

そんなことばかり考えていたけれど。







精いっぱい、夢中で過ごす幸せな時間、




場を作ってくれる人がいて、

教えてくれる人がいて、

一緒に学ぶ人がいて、

そこにいられる自分がいる。







もうそれで、充分。

それ以上、何もいらない。







2019年2月1日金曜日

からだ、カラダ、身体























自分自身積み重ねてきた練習の中で理解したり発見したりして、

確信を得られたこと。

それから、

これまでの練習仲間や生徒さんたちを観察してきてわかったこと。




ヨガのクラスで伝えることは、

全て、

直接的、或いは間接的な、私の経験ベース。




外から得た知識のみで、

自分自身で確信出来ていないこと、は伝えない。

右から左へ知識を受け渡すだけなら、私はいらないと思うから、

何となくそれを信条にしている。




でも、

経験ベースだと、なかなか出会えないこと、

出会えないけれど知っておきたいことは、

確信を持って教えてくれる先生に学びに行く。







月に1度参加する解剖学のクラス。




1番の目的は、

自分とは違うタイプの身体について知ること、

それから、自分の身体についても、より深く知ること。




学ぶ中で、

経験的に確信していたことが、解剖学の説明と一致すると、

心の中で小躍りしている。



昨日もまた1つ、2つ、と、そんなことがあって、

特に大切だと思っていたことだったから、私の中はお祭り騒ぎ。




興奮気味に家に帰って、

今朝からは、

それらを反芻しつつ、還元しつつ、練習するのがまた楽しい。







いずれ思うように動かなくなり、

最後には消え去る身体。




でも、これ無しでは何も体験できない、大切な乗り物でもある。




私が人のお役に立てることはこれくらいなので、

自分の身体で日々実験しながら、

周りの人が、少しでも長く快適に過ごせるように、

乗り心地よく手入れするお手伝いができればと思う。
















昨日は、まき先生の、解剖学のクラスでした。

本で学べる単なる知識、ではなく、

それを丁寧にご自身の身体に落とし込み、

さらに多くの身体を見てこられた経験を通して生まれた知恵を、

惜しまずシェアしてくださる、有り難い先生です。

次回が今から楽しみ。