2019年1月24日木曜日

ホラー映画で爆笑して何が悪い

これはホラー映画じゃないよ























カットに行ってきたのだけれど、2時間半近く時間がかかった。

なぜなら、美容師さんと話が盛り上がりすぎて、

何度も爆笑していたからだった。



毎回、私が興味を持ちそうな話題を振ってくれて、

調子に乗って私が話す、あまり一般的ではないような、

マニアックな話も興味を持って聞いてくれるので、

あっという間に時間が過ぎる。



もちろん、

お客さんである私に合わせてくれているとは思うけれど、

どうも、物事をちょっと違う角度から見てみる、

という共通の癖があるらしい。



多くの人が感動して泣いたという映画で、

全く感動ポイントが分からず、

自分はどこかおかしいのだろうかとさえ思った、

という美容師さんの話がそもそもの始まり。




実は私もしばしばそういうことがあって、

周りと違う、あるいは、製作者の意図と全然違う反応をしてしまったときのことをお互いいろいろ思い出した。




ホラー映画の、みんながきゃーっと叫んで怖がるところで、ちっとも恐くなくて、むしろとても滑稽に見えて爆笑してしまう。

恋愛映画のクライマックスで、ありえない設定がやはり滑稽に見えて笑ってしまう。

感動モノの映画も、いかにも過ぎる演出にうんざりして冷めてしまう。




美容師さんが昔映画館で見たホラー映画で大笑いした話をしてくれて、

私にもその内容はコントのようにしか聞こえず、

大声で笑ってしまったのだった。




こうして書いていてわかってきたのだけれど、

つまり、こう感じなさい、と、押し付けられることに違和感を覚えてしまうのだと思う。




美容師さんが最後の方で、

これって結局KYってことですかね?

と言ったけれど、




そんなところで空気読まなくていいと思うのだ。

何をどう感じるかなんて人それぞれなのに、

周りと同じ反応をしなきゃ、なんて必要ない。

作り手の指示どうりの感想を持たなきゃいけない理由もない。




映画に限らず、

ちょっと面倒臭いけど、

従順すぎないものの見方、私は大事だと思ってる。





とはいえ、

あまりの大声で周りの人の感動を妨げないようには気をつけようと思うけれど、

ちょっとずれたところで、ずれた反応をしていても、

暖かく見守ってください。





2019年1月23日水曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 その2

青空に向かって深呼吸!























すべての人にヨガをオススメしたい理由 その1 はこちら



身体能力を維持するためだけなら、筋トレをして柔軟体操をすればいいのかもしれない。

でも、私は絶対ヨガをオススメしたい。



その1番の理由が、呼吸。



筋トレや柔軟体操でも、呼吸を指導されることはあると思うけれど、

良い呼吸をするために、この筋トレをしましょう!柔軟性な身体を作りましょう!

ということではないはず。



ヨガは違う。

まず呼吸ありき、なのだ。



ヨガと言えば、いろいろなポーズをとるものというイメージがあるだろう。

ただ、そのポーズを形だけ真似しても、そのポーズは完成しない。

そのポーズをとりながら、かつ、深くスムーズな呼吸が出来て初めて完成したと見なされる。


呼吸抜きのヨガはありえない。



生きる、とは、息をすること。

呼吸が止まることは、命の終わり。



その呼吸の質を高めることは、命の質を高めることに繋がるのだと思う。

そしてそれが出来るのがヨガだということ。




ただ吸って吐くだけなら誰だって出来る、いや、しているはず。

でも、どんな風に?

無意識にしているだけに、自分がどんな呼吸をしているか、みんな知らない。




心肺機能を高めるだけなら、やはり他の運動でも構わない。

実際、どんなスポーツでも身体を使うことでも、レベルの高いプレイヤーほど、呼吸をコントロール出来ているのだろうと思う。



でも、より繊細に、より深く、呼吸を見つめてその質を高めることが出来るのがヨガ。

なぜなら、それこそがヨガの目的だからだ。





私は、ヨガを始める前、長くダンスをしていたのだけれど、ヨガほどではないにせよ、呼吸について注意を受けることがあった。

おかげで呼吸に意識を向けるようになったものの、その結果気づいたのは、日常の自分の呼吸が、浅くて、すぐ途切れて、全くスムーズではないということだった。

ダンスで激しく動いていたので、心肺機能は高められていたはずで、でも、どんなときにも安定した呼吸が出来るかと言えば、そうではなかった。



今の私は、その頃よりかなり年齢が上がっているから、激しいスポーツなどでは疲れやすくなっているかもしれない。

でも、日常動作では圧倒的に、今の方が疲れない。

それは、ヨガのおかげで、平常時の呼吸が深くなったからだと確信している。



そして、

呼吸の質が上がると、

疲れにくくなるだけにとどまらないいいことが、他にもいっぱいある。



それについては、長くなるのでまた次に。




クラスのお知らせです。


月1回、神戸の安養寺さんで開催している朝のヨガクラス、

今週末、1月27日です。

阪神大震災で全壊、その後寄付を集めて数年前に再建された、

歴史はあるけど新しいお寺です。

伝統的な手法を守って建てられた本堂は、

木の香りが漂う素晴らしい空間。

暖房も完備されていますので、安心してご参加ください。

詳細 お寺でヨガしませんか?




2019年1月22日火曜日

すべての人にヨガをオススメしたい理由 たぶんその1

梅。凛々しい、という言葉がよく似合う。























来月89歳になる母の介護をしている。




身体に意識的に動かすことをしてこないと、こうなってしまうのか、ということを、目の当たりにしている。




私が身体を動かすことに関わり続けるのは、もちろん自分が好きだからでもあるけれど、この母を反面教師にしている部分も大いにある。



母は、生涯通して、一切のスポーツ、運動といったことをしたことがない。学生時代は戦争中で、そのあとは親の借金を背負って働き詰めだったので、その頃にそんなことは出来なくて当然だとは思う。


私を子育て中に、膝だか腰だかに不調を感じて、歩かねば、と思い、数年間、新聞集金のパートに出たところまでは良かった。(母は自転車に乗れないので、徒歩で集金に回っていた)


しかし、その後は、月数回、山のお寺にお参りに行くくらいで、歩く以外のことは何もして来なかった。




身体能力は、使っていれば維持、向上も出来るけれど、使わずに放っておくと退化する。さらに、使っていても、加齢で徐々に落ちていく。




ただ、高齢の人でも、定期的に動かせば、ある程度筋力もつくし、柔軟性も上がる。




問題は、

生まれてこのかた身体を意識して動かしてこなかった人は、

脳と身体の連携が良くなくて、

筋力、柔軟性の問題以前に、

思ったように身体を動かせない。

脳の命令が、うまく身体に伝わらない、回路が、途切れているのだと思う。




若い頃、スポーツなどで1度でもこの回路を繋げたことのある人は、

ブランクがあっても、比較的早く回路が復活する。




ブランクなく、継続して身体を動かしている人は、この回路がしっかり繋がっているから、年齢が上がって新しいことにチャレンジしても結構出来たりする。



けれど、

この回路を、高齢になって初めて繋ぐのは、とても難しいし、何をやってもうまく出来なくて、運動を継続しにくくもなる。



(これらのことは全部、ダンスやヨガを長く続けてきた自分自身の経験を通して、

或いは周りの人や生徒さんたちを見てきて、

或いは母を観察してきて、いつしか考えるようになったことだけれど、概ね間違えてはいないと思う。

私は運動生理学などを学んだことがないから、もしかしたらとても基本的なことなのかもしれない。

そちらの観点からの知識がある方、良ければ是非教えてください。)



何にしてもとにかく、


あまり身体を動かしてこなくて、この回路が繋がっていない人は、出来るだけ早く繋げることをした方がいいし、


ある程度繋がっている人は、途切れないように使い続けた方がいい。



気、プラーナ、などと言われるエネルギーのことを書いたけれど、

私が思う気の話 土地編
私が思う気の話 人編


そのようなことに興味がなくても、

身体能力を出来るだけ維持することは考えた方がいい。

年齢が上がると、その低下が更にいろいろな問題に繋がっていく。




そして、そのためにも、ヨガは特にオススメ。


身体をくまなく使って全身の筋力、柔軟性をともに高められ、

さらに呼吸を意識して動くことで、大切な呼吸器の機能も高められる。


ただし、


三日坊主や、数カ月に1回のイベント的参加では、効果は得られないので悪しからず。






2019年1月21日月曜日

私が思う気の話 人編




2005年、チベット、ラサの巡礼者たち


















人の持つ気。

これは、土地と違ってちょっと厄介。


私が思う気の話 土地編



きっと、身体中を、エネルギーが気持ち良く巡っていれば、いい気を放っているのだろうし、


良くない気を発している時は、

何事かでその流れが妨げられ、滞っているのだろう。




土地の気よりずっと短いスパンで、上がったり下がったり。




そして、

そんな気を、知らず知らす私たちは外に放っていて、

お互いに、与えたり受け取ったりしている。







チベットの偉いお坊さんに、何度か間近でご挨拶させていただいたことがあるけれど、




毎回、ただ足元に座らせていただくだけで、

パワフルな聖地に足を踏み入れたいるかのように、

安心感と幸福感、肯定感に全身が包まれる。




どれほどのいい気が巡り、外に放たれているんだろう。




人が、このような存在になり得るということが、驚きでもあり、希望にもなるのだけれど。




比べるのもおこがましいとは言え、

かたや私は、

残念ながら、

マイナスの気をしばしば、たぶんかなりしばしば放っている。(周りのみなさんゴメンナサイ)




ただ、自覚があるときには、

その気を外に向けないように意識することを最近覚えて、これは結構有効なように感じている。




でも、いつもそんな風に冷静に対処出来ないからやっぱり厄介。







でも、だからヨガが必要なんだよね。










そんな、気を整えるヨガの話をこれから書いていこうと思います。


2019年1月20日日曜日

私が思う気の話 土地編

チベット、ラサのポタラ宮


















気、とか、プラーナ、とか、

呼び方はなんでもいいけれど、

何かしらエネルギーの流れを私たちはみんな持っていて、

それは、他の生き物も、木や石や土地も同じで、

お互いにそれを感じたり与えたり受け取ったりしている。




見えないものは信じないという人もいるだろうから、

何を根拠に、と言われるかもしれないけれど、

確かにそんなエネルギーを感じている人は、私に限らずたくさんいて、




今外で鳴いているネコがそこにいるように、

今手に持っているコーヒーカップがここにあるように、



確かに感じるのだから、あるものはある、としか言えない。




昨日、お参りの話を書いたけれど、

お寺や神社は、

そんなエネルギーの流れの良い場所に建っているから、

信仰心がなくても、そこへ行くことで元気になれる。

あるいは、その元気にしてくれるチカラこそが、神様だとも言える。




私が知っている中で1番パワフルな場所はチベットのラサだ。

そこにいるだけで、身体にエネルギーが溢れて、気分が高揚する。

元々の大きな土地のエネルギーに、多くの人々が惹きつけられて巡礼にやってくる、その祈りのパワーが積み重なって、さらにエネルギーを強くする。

聖地とは、そういう場所なのだと思う。




ラサにはなかなか行けそうにないけれど、




お気に入りのお寺や神社に行っては、良い気をいただいてくる。

自然の中にある、大きな木や石に触れてチカラをもらう。

自力では整えきれない自分のエネルギーを、そういうところで助けてもらって整えている。



次は氣の話、人編





2019年1月19日土曜日

お参りは愉しい

奈良県生駒市、宝山寺大黒堂前からの眺め。






月に1度、家族3人揃ってお参りするのが決まりだった。





日曜の朝、突然、母が今日はお参りに行くと宣言すると、のんびり休日を過ごすつもりだったはずの父も絶対逆らえず、必ず行くしかないのだった。





正直、楽しいお出かけではなかった。





寒くても暑くても、山の中腹に点々とあるお堂にお線香とお賽銭を備え、手を合わせながら、奥の院の先にある大黒堂まで登る。最後はお堂の周りを100回周るお百度を踏んで、ようやく帰路。

特に冬場は、今よりもっと寒かったから、手先足先が凍えて、本当に辛かった。





行き帰りに楽しい寄り道があるということもなく、特にお正月のお参りの時など、どちらかと言えば参道の屋台がメインらしい家族連れなどを、恨めしく眺めていた。






いつの頃からか、私は1人でお参りするようになり、父も他界して、それからもずいぶんと時間が経った。家族揃ってのお参りだけでなく、月に3回は通い、お堂のお手伝いまでしていた母も、自力で行けなくなって久しい。






私だけが、あの気乗りしなかった月1回のお参りを、誰に強制されるわけでもないのに、律儀に続けている。






それも、嬉々として。






今なら、なぜ母が月3度も通ったのかがよくわかる。






今日は久しぶりに大黒堂でお百度を踏んだ。


真言を唱えながら100回周る間、もう昔のように、早く終わればいいのに、とは思わない。






身体中の無駄な力が抜けて、お線香の香りが深く染み込んでいくのを味わいながら、大きなチカラに包まれる安心感の中で過ごす時間。


終われば何もかもニュートラルに戻っていて、ああまた来よう、そう思いながら山を下りる。






疲れたら、ただそこに行けばいい。


そんな場所を持てていることのありがたさを噛みしめ、そのご縁をくれた母にも、感謝を感じながら。








2018年11月13日火曜日

残念だけど残念じゃないこと

とは言えなんだか捨てるのが忍びないチケット






















先月の入院から順調に回復した母が、退院してからも予想以上に落ち着いているので、

諦めていたダライ・ラマ法王の法話に参加しようと、

今月に入ってから、横浜行きを企んでいた。




ところが、

なんとか段取りをつけて、行きの夜行バスと入場券を手配したところで、

落ち着いていたはずの母が1日に2度も家で転んで、

幸い怪我はなかったけれど、急激に足が弱っていることに気づかされた。




おまけに、子供の頃いつも一緒に遊んだといういとこの訃報まで届いて落ち込む母を見て、

結局横浜行きは取り止めにすることにした。




一番お安い席とはいえ入場券は購入済み、

バスのチケット代も全額は戻ってこない。

何より法話に行きたかったから、

ずっと以前の私なら、さぞ苛立っていたと思う。




でも、今の私は、特にがっかりもしていない。

もちろんやせ我慢などではなくて。







母その他、自分以外の人や物事に振り回されることに慣れてしまった、ということもないとはいえない。

ただ、それだけとどこかに恨みが残りそう。

でもちょっと違うのだ。




せっかくなので、なぜなのか改めて考えてみる。




そもそも、

今回行けなかったことは、母のせいだと思っていない。

一見、誰か、や、何か、のせいであるように見えることも、

いつかの、私自身の行いが回り回って影響している、と思っている、

たとえそのつながりが見えなかったとしても。


さらに言えば、最終的に行かないと決めたのは私自身であって母ではない。



前回のブログにもチラリと書いたけれど、
ハハのムスメ



自分の身に起きることはすべて自分のせいだと考えれば、

誰かや何かを恨むことをしないで済む。




それに加えて、

行けなかったことが必ずしも残念な、マイナスなこととは限らないとも思っている。

行かなかったせいで、お釣りがくるくらい楽しい出来事に出会うかもしれないし、

逆に、行けていたとしても、来なけりゃよかったと思う出来事に出会うかもしれない。




つまり、

近くから見ると、

母のせいで起きたネガティブなこと、のように見えるけれど、

離れて遠くからみれば、

私自身が招いたポジティブなこと、になるかもしれない。







もちろんこれは私が考えたアイデアではなくて、 
こんな風に思えるようになったのは、

仏教その他、

インドやチベットの古い教えのおかげ。 






空いた時間、

母を連れて紅葉でも見に行こう。

それはそれでワクワクする。